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Your search : [ author:北京放送元副編集長 李順然=文] Total 50 Search Results,Processed in 0.078 second(s)
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21. 音楽を聞くような秋の空
色彩の魔術師、梅原竜三郎(一八八八~一九八六年)は、北京を六回訪れている。そして、多くの傑作を残したが、六回の訪問のうち五回は、秋の北京だった。美しいものしか描かないという梅原は、北京の何に美しさを感じたのだろうか。おそらく北京の秋、とりわけその空だったと思う。梅原は、北京の秋の空についてこう書いている。「秋の高い空に興味をもった。何だか音楽を聞いているような空だった」秋の陽に輝く紫禁城の黄色の瑠
Author: 北京放送元副編集長 李順然 Year 2005 Issue 9 PDF HTML
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22. 「誠心誠意」が生んだ麺食いの本
近畿日本ツーリスト北京事務所の所長をしていた坂本一敏さんから、その力作『中国麺食い紀行』(一星企画)をいただいた。二十七年かけて、中国大陸の四百五十ほどの街を訪ね、その土地、その土地の麺をみずからの五感で採点し、それを記録した本で、ご本人撮影の写真も豊富に添えられていて、実に面白い。中国の書籍を扱っている東京神田の東方書店の中国に関する日本語書籍月間ベストテンでも、一位にランクされたことがある。こ
Author: 北京放送元副編集長 李順然 Year 2005 Issue 10 PDF HTML
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23. 冷静、科学的な日本研究を
中日友好協会の会長をされたこともある夏衍さんが亡くなられて十年になる。夏衍さんは、青年時代の七年間、日本に留学し、明治専門学校(現在の九州工業大学)などで学び、帰国後はシナリオ作家として文化界で活躍。中日全面戦争が始まると『救亡日報』『新華日報』などの編集長として抗日の論陣を張った。中華人民共和国誕生後は、映画『祝福』などの名シナリオを書く一方、文化部副部長(次官)などを歴任したあと、中日友好協会
Author: 北京放送元副編集長 李順然 Year 2005 Issue 11 PDF HTML
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24. お兄ちゃんの居眠り
年末、年始が近づくと、ある風景が頭に浮かぶ。二十世紀も終わろうとしていた二〇〇〇年十二月三十日のことだ。私は、北京·西単の民航ビルの前から、空港行きのシャトルバスに乗って、日本から来る友人を迎えに北京首都空港に行った。このシャトルバス、料金が安い上に、時間通りに空港に着くので、よく利用している。最近は、外国人の客も見かけるようになったが、どうしたことか、日本人は少ない。民航ビルに早目に着いたので、
Author: 北京放送元副編集長 李順然 Year 2005 Issue 12 PDF HTML
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25. 長城の初日の出にかけた願
二十年も前になるが、一九八五年の初日の出を、私は北京郊外八達嶺の万里の長城で迎えた。限りなく静かな万里の長城、雲の中から浮かびあがった真紅の太陽、息もつまるような感動……いまも忘れられない。あの日同行したのは北京放送日本語部のスタッフで、その年の年男だった徐学林君、年女だった李麗桃嬢。ともに大学の日本語科をでたばかりで、ピチピチしていた。万里の長城の上で、誰いうとなく、東の空に昇る初日の出に願をか
Author: 北京放送元副編集長 李順然 Year 2006 Issue 1 PDF HTML
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26. 張おばあさんとワラビの味噌あえ
一九六五年から一九六六年にかけての一年、私は朝鮮との国境に近い中国·東北地方の通化からバスで半日、さらに馬車で半日という山奥の一寒村で過した。ここの農民と同じものを食べ、同じところに住み、同じように働くという「三同」の生活をしていたのだ。この「三同」は、知識人の「思想改造の一環」として、当時の政府の呼びかけで進められたものだが、その是非についてはいろいろな見方がある。だが、都会育ち、しかも日本の東
Author: 北京放送元副編集長 李順然 Year 2006 Issue 2 PDF HTML
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27. ジョークも巧みだった啓功さん
中国書道協会の名誉会長で、中国書道界の大御所だった啓功さんが亡くなったのは、去年の夏のことだ。私は啓功さんからいただいた「倚杖看雲」(杖(つえ)に倚(たよ)りて雲を看る)という書を書斎に飾り、啓功さんを偲んだ。この四文字が、なにか啓功さんの自画像であるように感じられてならなかった。享年九十三歳だった。啓功さんとは、ちょっとご縁がある。父の墓を造るとき、啓功さんに墓碑を書いていただけないかとお願いし
Author: 北京放送元副編集長 李順然 Year 2006 Issue 3 PDF HTML
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28. 五七幹部学校の「遊び時間」
例の「文化大革命」(一九六六~一九七六年)のとき、中国各地に「五七幹部学校」という学校が造られた。毛沢東主席(一八九三~一九七六年)が出した「政府関係の部門で働く者も、農村に行って思想を改造せよ」という指示によって、各地の農村に造られた思想改造の学校で、「五七」というのは、毛主席がこの指示を出したのが一九六六年五月七日だったところから来ている。創立当初の「五七幹部学校」は、きびしい思想改造、きつい
Author: 北京放送元副編集長 李順然 Year 2006 Issue 4 PDF HTML
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29. 「四害」をめぐる思い出
一九五八年のことだ。戸外でも寒くなかったから、春か、夏か、秋だったようだ。わたしは「スズメ退治」で忙しい一日を送った。実は、四害(ネズミ、スズメ、ハエ、蚊)を七年以内に基本的に退治せよ、という「除四害」の通達が出され、その一環としての北京市あげての「スズメ退治」に参加したのだ。これら「四害」は、穀物を食い荒らしたり、伝染病流行の媒体となるので退治しようというわけだ。その日、北京市民は東の空が白むの
Author: 北京放送元副編集長 李順然 Year 2006 Issue 5 PDF HTML
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30. 酒は「乱に及ばず」を守るべし
半世紀も昔の話になるが、日本での生活にピリオドを打ち、中国に帰ってきて最初に口にしたお酒は、「竹葉青酒」だった。「竹葉青酒」は、山西省杏花村産の汾酒を竹の葉などに浸けて造ったお酒で、淡いみどり色をしていて、甘く口当りがよく、しばらくは馬鹿の一つ覚えのように、この酒ばかり飲んでいた。ちなみに、山西省杏花村は唐の時代の詩人である杜牧の「清明(せいめい)の時節雨紛紛(じせつあめふんぷん)」で始まる「清明
Author: 北京放送元副編集長 李順然 Year 2006 Issue 6 PDF HTML