一九六五年から一九六六年にかけての一年、私は朝鮮との国境に近い中国·東北地方の通化からバスで半日、さらに馬車で半日という山奥の一寒村で過した。ここの農民と同じものを食べ、同じところに住み、同じように働くという「三同」の生活をしていたのだ。この「三同」は、知識人の「思想改造の一環」として、当時の政府の呼びかけで進められたものだが、その是非についてはいろいろな見方がある。だが、都会育ち、しかも日本の東...
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一九六五年から一九六六年にかけての一年、私は朝鮮との国境に近い中国·東北地方の通化からバスで半日、さらに馬車で半日という山奥の一寒村で過した。ここの農民と同じものを食べ、同じところに住み、同じように働くという「三同」の生活をしていたのだ。この「三同」は、知識人の「思想改造の一環」として、当時の政府の呼びかけで進められたものだが、その是非についてはいろいろな見方がある。だが、都会育ち、しかも日本の東...