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Your search : [ author:郭実] Total 221 Search Results,Processed in 0.083 second(s)
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191. 天師道発祥の地―鶴鳴山、青城山
前漢初年のことである。都長安の通りで遊んでいた五人の子どもの、黒い服をきた子がこんな童謡を口ずさんだ。「黒い裙(も)着て、天門に入る。金母に揖(ゆう)し、木公に拝す」この童謡はまもなく国じゅうに流れたが、その謎めいた歌詞の意味は誰も分からなかった。しかし、前漢王朝の建国元勲である張良(?~前一八六)は見当がついていた。「あの黒衣の子は東王公に仕える童子にちがいない。童謡は、修行して昇天したければ男
Author: 文·楊天乙 写真·郭実 Year 1997 Issue 8 PDF HTML
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192. 「碧水丹岩」の仙境―竜虎山(上)
前回に張陵の話をしたが、蜀(四川地方)入りして天師道を創立する前に、彼は竜虎山で三十年間煉丹と修行をつづけた。のちにそのひ孫にあたる張盛が竜虎山に戻って先祖の創始した天師道を大いに発展させる。いらい、歴代の天師たちがここを修行と伝道の場としてきた。これによって天師道は道教のなかでも一つの氏姓によって継がれる唯一の宗門となり、竜虎山は道教発祥の地として広く知られるようになった。丹薬なりて竜虎現る竜虎
Author: 文·楊天乙 写真·郭実 Year 1997 Issue 9 PDF HTML
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193. 由緒ある天師道の祖庭―竜虎山(下)
筏に乗って瀘渓河を下っていると、美しい山水に身も心も溶け込み、おのずと遠い昔に想像が走る。もし祖天師張陵に蜀に赴いて天師教を開くという信念がなかったら、どうしてこの山紫水明の地を離れることができたのだろう。蜀のけわしい山道を上り下るとき、彼はきっと竜虎山の絵のような山水を脳裏に浮かばせていたことだろう。そしてのちに鶴鳴山、青城山で送った日々に、幾度となくかつて三十年間を過ごした掛け替えのない楽土の
Author: 文·楊天乙 写真·郭実 Year 1997 Issue 10 PDF HTML
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194. 杭州に抱朴道院を訪ねる
杭州の西湖の北岸にある葛嶺は、標高わずかに一六六メートルの山だが、有名な道教の理論家、煉丹家、医学者である葛洪(かつこう)(二八四~三六四)にちなんで名付けられた道教の名山である。葛洪は道号を抱朴子といい、道教の経典『抱朴子』を著した。そのため葛洪を祭る山中の道院は后世の人びとから「抱朴道院」と呼ばれてきた。風光明媚な西湖は四季を通して観光客で賑わう。だが西湖から一キロ足らずの抱朴道院は俗世間を離
Author: 文·楊天乙 写真·郭実 Year 1997 Issue 11 PDF HTML
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195. 沖虚古観に葛洪の足跡を尋ねる
山紫水明の西湖とはいえ、眺めているだけで食べていけるところではない。やむをえず、五年後には山林を出て官職についた葛洪だが、親友の郭文が死すると、人生の空しさを痛感し、再び隠遁生活に入る。有名な志怪小説『捜神記』の作者、東晋の干宝の推挙もあったが、出仕を断りつづけた。三三三年、年齢を意識し、煉丹を急がねばと、丹砂の産出地である交趾郡勾漏県(今の広西チワン族自治区境内)の県令の任を買って出る。あの才覚
Author: 文·楊天乙 写真·郭実 Year 1997 Issue 12 PDF HTML
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196. 壮麗な玉隆の万寿宫-許遜の遺跡と伝説
広州から北京に戻る列車の中で、張道陵、葛洪とともに『西遊記』に登場する四大天師の一人許真君[注释1]のことが気に掛かってならなかった。そこで南昌(ナンチャン)で下車して許真君の足跡を追うことにした。許真君は葛洪と同じ時代を生きた道士許遜(きょそん)のことである。字(あざな)は敬之、高陽(現在の河南省汝南(ルーナン))の人で、長く豫章(よしょう)(同南昌)に住んだ。旌(せい)陽(よう)(同湖北省枝江
Author: 文·楊天乙 写真·郭実 Year 1998 Issue 1 PDF HTML
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197. 新天師道発祥の地
紀元四二三年、道士寇謙之(こうけんし)(三六五~四四八年)は還暦に近い身で、長年修行していた嵩山(すうざん)(いまの河南省にある)を出て、北魏(ほくぎ)の都平城(へいじよう)(いまの山西省大同(タートン)市)に向かった。ここから中国道教史上の新しい一ぺージが開かれる。張魯(ちょうろ)が世を去った後、天師道は組織が揺るぎ、綱紀が緩み始め、内部に混乱が現れた。そして葛洪(かつこう)、許遜(きょそん)の
Author: 文·楊天乙 写真·郭実 Year 1998 Issue 2 PDF HTML
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198. 山中に仙境あり―陸修静と廬山
廬山(ろざん)は中国に数ある名山の中でも最も文化の香りの高い山である。漢代、紀元前二世紀の大歴史家司馬遷(しばせん)が『史記』の中で、「南方の廬山に登った」と記した時から、この山は中国の文化史に登場する。魏晋(ぎしん)南北朝時代の四世紀から五世紀にかけ、仏教の宗師恵遠(けいえん)と道教の宗師陸修静(りくしゆうせい)が廬山に登り、教えを広めたので、さらに広く注目されるようになった。また彼らと同じ時代
Author: 文·楊天乙 写真·郭実 Year 1998 Issue 3 PDF HTML
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199. 歴史を伝える潮州古城
潮州古城の東門外にある広済橋は全長518メートル、俗に湘子橋(チアオ)とも呼ばれ、趙州橋(チアオ)(河北省)、洛陽橋(チアオ)(河南省)、盧溝橋(チアオ)(北京市)とともに中国四大古橋と称される。宋代の乾道(かんこう)7年(1171年)に建造が始まった。この橋は初めは浮き橋だったが、後に両岸から少しずつ石を積んだ低い橋脚を築き、浮き橋を渡して安定させた。明(みん)代の正德(しょうこく)8年(151
Author: 写真·文 郭実(クオシー) Year 1998 Issue 7 PDF HTML
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200. 北京·雍和宮 古都の春を清める「打鬼」
中国の多くの少数民族は、祭日に面をつけ舞踏を行う風習がある。ラマ教の信者が行う「祀神舞(ししんぶ)」もその一例に数えられる。北京のラマ教寺院として名高い雍和宮では、毎年旧暦一月二十三日から二月一日にかけて「祈原大法会」を行い、最後の二日間に「打鬼(だき)」を行う。この「打鬼」も民族伝統の「祀神舞」といえるだろう。「打鬼」は北京での俗称で、「跳神」とか「跳鬼」と呼ばれることもある。また北京のモンゴル
Author: 写真·郭実 文·阿巴徳夫 Year 2000 Issue 8 PDF HTML