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Your search : [ author:安金槐 史石] Total 112 Search Results,Processed in 0.084 second(s)
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51. 清朝の興隆期
清朝の前期、康煕(こうき)帝から乾隆(けんりゆう)帝までの百三十余年(一六六二~一七九五)を、史書は「康乾の盛世」という。「康乾の盛世」は、漢初期の「文景の治」(「中国の歴史」第十二回参照―本誌一九七九年十二月号)、唐初期の「貞観の治」(「中国の歴史」第二十八回参照―本誌一九八一年四月号)とならんで、封建統治下の中国における「花の時代」に数えられている。この時代がおさめた特筆すべき業績として、史書
Author: 史石 Year 1983 Issue 3 PDF HTML
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52. 漢·神獣金権
度量衡は、すべての科学の基礎であるが、その起源については、これまでもずっと神秘めいて解釈されてきた。漢代には黄鐘(おうしき)説というのがあり、度は黄鐘の長さ、量は黄鐘の容積、衡は黄鐘の容量の重さから始まっている、とする。黄鐘とは、元来古代の十二音律の名称の一つである。ただ、ここでは黄鐘という音律を奏する竹筒(笛)のことをさし、龠(やく)とよばれた。この説にしたがえば、度量衡は音律に起源を発し、黄鐘
Author: 史石 Year 1983 Issue 3 PDF HTML
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53. 清朝の衰退
古今東西、盛衰は事物の裏表(うらおもて)のようなものだといわれてきた。衰退が極に達すれば新しい局面がひらかれるし、また盛況が極に達すれば衰退が訪れるという状態をくり返しながら歴史はすすむというのである。清朝の歴史もそうで、「康乾の盛世」の裏には、衰退の兆しが隠されていた。「文字の獄」による思想弾圧、官吏の腐敗、八旗兵の堕落、土地併呑による地主·農民間の矛盾の激化……などが、それである。ここでは、そ
Author: 史石 Year 1983 Issue 4 PDF HTML
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54. 戦国·金銀錯銅鼎
『史記』の中にこんな神話が載っている。「黄帝は、首山で採った銅を荊山の麓へ運び、鼎(かなえ)を鋳造した。鼎ができあがると、一匹の竜がひげを垂れてうやうやしく黄帝を迎えた。黄帝は竜の背にまたがる。そして従う群臣后宮七十余人もまたがると、竜は跳び立って……」この神話に出てくる鼎は神に通ずる霊感をもつが、それは、あきらかに、神権の象徴である。それかあらぬか、中国には、昔から「神鼎」という言葉がある。伝説
Author: 史石 Year 1983 Issue 4 PDF HTML
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55. 唐代·銀塗金亀負酒籌筒
中国では、「酒令」(飲酒のときの遊戯)といえば、とたんにあのかまびすしい拳(けん)の掛け声を思いおこすのがふつうだが、実際は、拳というのは数多くある酒席をもりたてる遊びのひとつにすぎないのであって、本式の酒令の部類には入れてもらえない。本式の酒令というのは、ちゃんと「令官」がいて、実際に命令をくだすのである。例の小説『紅楼夢』の第四十回には、清代の「牙牌令」というのが出てくるが、鴛鴦(えんおう)が
Author: 史石 Year 1983 Issue 6 PDF HTML
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56. 明·清の科学
明代の中葉以後、中国の社会は大変動の時期を迎える。封建主義の生産関係が衰退の兆しをみせ、資本主義が芽生える。経済的土台のなかにあらわれた目だたぬ変化は上部構造にも反映された。そして、風俗習慣から社会の気風、芸術から科学と各分野に変化があらわれ、新しい事物が出現する。こうした歴史の転換点に、中国の古代科学の集大成ともいうべき書籍『本草綱目』『天工開物』『農政全書』が、また世界の地質学の名著に数えられ
Author: 史石 Year 1983 Issue 7 PDF HTML
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57. 隋代·嵌珠宝金項鏈
昨年秋、日本を訪問した際、高槻市教育委員会のご好意で、未公開の高槻出土の古文物を見せていただいた。古墳時代の玉管の首飾りと金の耳飾りを見たとたん、おやつ、どこかでみたことがあるぞと感じて、しばらくみつめていた。かたわらの日本の友人が、「中国の女性も首飾りがすきですか」ときくので、私はおもわず、「すきですよ」と返事をしたが、すぐ、これでは説明不十分だと気づいて、言いそえた。「すきなことはすきですが、
Author: 史石 Year 1983 Issue 7 PDF HTML
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58. 唐代·刻花金壺
黄金といえば、その輝きが、事物の盛んなさまを象徴するとともに、世に得難いものの象徴でもある。最も美しくよき時代を黄金時代というのも、うなずける。封建制の上に成った唐朝の盛世は、中国古代史の黄金時代と称されるが、もちろんこれは比喩的表現である。だが、事実、唐朝の栄枯盛衰は、確かに黄金とかかわりあいがあった。「貞観の治」といえば、唐の太宗李世民の治績を指すとともに、初唐の盛世を表わす言葉でもある。もと
Author: 史石 Year 1983 Issue 8 PDF HTML
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59. 唐代·金花銀鎖
本月号の古文物カラーページには、金花銀鎖(金銀でめっきしたじょうまえ。長さ一三·五センチ)を紹介した。これは千二百年前の唐代の遺物で、一九七〇年に西安市の南郊外にある何家村で出土したものである。同時に出土した金銀製の器具は二七〇点に達し、金花銀鎖と銀鎖だけでも二三点に達したのだが、唐代の金銀鎖といえば、こんなおもしろい話が思いだされる。―僖宗治世の頃である。宮廷内は皇帝の命により、辺境将士の戦服作
Author: 史石 Year 1983 Issue 9 PDF HTML
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60. 初公開 秦始皇帝陵の銅車馬
●巻頭グラフ参照秦始皇帝の兵馬桶が日本を訪れるのと時を同じくして、中国では始皇帝の銅製の車馬が初公開された。調査·発掘·復元―始皇帝の銅車馬坑始皇帝の銅車馬といえば、思いうかべるのは、彼が鉄腕をふるって中国を統一した後、五次の巡幸をしたことだ。馬で万里を疾駆し、東海でさめを射ち、泰山で天地をまつり封禅した故事である。巡幸の目的は、天下に威風を示すためで、その儀仗はたいへんなものであったといわれる。
Author: 史石 Year 1983 Issue 10 PDF HTML