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Your search : [ author:安金槐 史石] Total 112 Search Results,Processed in 0.092 second(s)
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41. 蒙古王朝の功罪
蒙古王朝というと、すぐ頭に浮かぶのはジンギス·ハンとその子孫たちのことだろう。これら遊牧民族の首長たちは、数万、数十万にのぼる蒙古の鉄騎をひきいて、ユーラシア大陸を縦横無尽に駆けめぐり、さらには海を渡って遠征し史上空前の蒙古大帝国を打ちたてたのである。十三世紀の百年近くにわたって、蒙古族は中国だけでなく世界歴史の舞台の主役を演じたといえよう。アジア、ヨーロッパ二大陸を股に掛けた蒙古族の動きは、世界
Author: 史石 Year 1982 Issue 4 PDF HTML
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42. 宋·元の三大発明(上)
四百余年におよぶ宋、元の時代は、中国の古代科学技術史における黄金時代ともいえよう。日本でも翻訳刊行されている『中国の科学と文明』などの著者として知られるイギリスのジョセフ·ニーダム教授は、「文献によって中国の科学の歴史の資料を調べていくと、往々にしてその主な焦点が宋代にあることがわかる」とのべている。たしかに、中国古代の三大発明といわれる印刷技術、羅針盤、火薬は、いずれも数世紀から十数世紀にわたる
Author: 史石 Year 1982 Issue 5 PDF HTML
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43. 宋·元の三大科学者(下)
春秋戦国時代(紀元前七七〇~前二二一年)の百家争鳴を古代哲学の春というなら、宋·元の四百余年は古代科学技術の春だったといえよう。宋·元の時代には、前回でふれた活字印刷、羅針盤、火薬という中国の三大発明が人類にこれらの分野における発展のひろびろとした道を切りひらいただけでなく、天文、暦法、数学、地質、物理、医療、薬品などの面でも世界に誇る多くの業績が生みだされている。中国古代科学技術の集大成ともいう
Author: 史石 Year 1982 Issue 6 PDF HTML
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44. 箍形玉飾
カラー参照玉石には霊魂が宿るという考え方が民間にはあるが、その例として、こんな咄(はなし)がある。ある善良な若者が一匹の小鹿を救った。すると、小鹿は口から玉をひとつ出し、若者におくった。若者がもちかえって米びつに入れると、米を食いつくしてもすぐ米びつの底から米がわいて出た。銭(ぜに)箱の中へ入れると、銭がなくなっても、すぐまたわいて出てくる。強欲な地主がこれを聞きつけて、この玉を奪い去ったところ、
Author: 史石 Year 1982 Issue 10 PDF HTML
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45. 明王朝の誕生
中国における封建制度は、戦国時代(紀元前四七五~前二二一)の初期から、清朝中葉の中国·イギリス間のアヘン戦争(一八四〇)までの二千三百余年にわたる。この間の封建制度を太陽にたとえるならば、秦、漢の時代には勢いよく東の空にのぼる朝の太陽、隋、唐の時代には燃えるような真昼の太陽、そして宋、元をへて明、清の時代には西の地平線に沈みゆく太陽だったといえる。明、清にかけての中国では、封建制度の母体のなかで資
Author: 史石 Year 1982 Issue 11 PDF HTML
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46. 明朝の内憂外患
明朝は、洪武帝の開国(一三六八年)から鄭和(一三七一~一四三五年)の遠洋航海のころまでの七十年近くにわたって、その国勢を伸ばし全盛期にあった。しかし、その後の二百余年には、内外ともに多くの難題をかかえ衰退の一途をたどる。この間に改革を志す賢相もあらわれたが、大勢はいかんともしがたく、一六四四年にその末日を迎える。今回は、明朝の内憂、外患をとりあげてみよう。青白を人間(ひとのよ)に留めん―明朝の外患
Author: 史石 Year 1982 Issue 12 PDF HTML
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47. 明王朝の滅亡
末期の明王朝は、内外ともに困難が山積みし、その政治も腐敗の極に達していた。こうしたときに、崇禎(すうてい)帝朱由検(一六一一~一六四四)が、崩壊寸前ともいえる明王朝の帝位を継承したのである(崇禎元年は一六二八年)。崇禎帝は帝位に着くとすぐ、魏忠賢とその一味を追放した。悪事のかぎりをつくし、国を滅亡にみちびき、民衆に災いをもたらしてきたこの魏忠賢という男は宙官の頭目で、前号でもふれたが各地に自分の像
Author: 史石 Year 1983 Issue 1 PDF HTML
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48. 戦国·金盞と金匙
昨年中、本欄では、もっぱら殷の女将軍、婦好の墳墓から出土した玉器を紹介しましたが、今年からは、中国古代の金器にしぼって紹介することにしました。どうかご期待下さい。 編集部悪宰相として聞こえた明の宰相厳嵩は、権力にまかせて金銀を山ほど貯えた。後、乞食にまでなり下がるが、それでも金製の碗で物乞いし、あげくは墓地の番人小屋で餓死したという。この話は後世、「金のお碗で物乞いする」という成語になるが、その意
Author: 史石 Year 1983 Issue 1 PDF HTML
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49. 清朝と明の遺民
一六四四年は、明(みん)、清(しん)の歴史にとって多事多端な年であった。三月―北京陥落、明朝崩壊。四月―闖王李自成北京にて皇帝就位、だが翌日都落ち。五月―順治帝北京遷都、大清王朝誕生。同じく五月―南明の金陵朝廷成立。このあと、清朝は数十万の兵をくりだして、黄河をわたり、長江(揚子江)を越えて全国併合の挙にでる。異民族の侵入を前にした漢族は、武器をとってたち向かい、中国の大地は血で染められたのである
Author: 史石 Year 1983 Issue 2 PDF HTML
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50. 春秋·錯金鳥書戈
先秦の書道芸術の一つである「鳥書」については、中国書道史上においても諸説紛々で、結局これといった定説がない。現代でもなお新説が続出、そのたびに耳目を一新させられるのだが、鳥書の何たるかを知っていただくには、宋代のある政治物語から始めるのがてっとりばやい。宋の哲宗の時である。党派間の争いが激しく、政治は日ましに腐敗していった。紹聖五年の年頭、段義という者が宝璽一方を献上した。その瑞宝は青緑色で、正方
Author: 史石 Year 1983 Issue 2 PDF HTML