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Your search : [ author:安金槐 史石] Total 112 Search Results,Processed in 0.094 second(s)
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31. 唐代の鎧甲騎士俑
カラー参照今回紹介する騎士俑(よう)は、鎧盔(よろいかぶと)に身を固め、鎧をつけた戦馬にのった武士である。左腰に軍刀、右腰には矢袋をさげて威風堂々たる俑の姿を目にしたとたん、「なんと、黒鉄塔ではないか」と興奮した。しかし、実際は、純白の素地にやや青みがかった釉をかけた、淡黄色の磁俑である。よく見ると、一面に氷裂紋が焼かれ、古朴できどったところがない。高さは二五センチ、湖南省湘陰にある岳州窯の作品で
Author: 史石 Year 1981 Issue 9 PDF HTML
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32. 隋·唐·五代の科学
中国の封建社会の黄金時代といわれる唐、そしてこの唐をはさんだ隋·唐·五代の三百八十年のほとんどの時期は統一の世がつづいた。だが、この時代の中国の自然科学は、高潮期をむかえるにはいたっていない。この時代は、大発展を前にした前奏期にあったといえよう。ここでは、建築学、医学、天文学などの分野で、この時代が後世に残した成果をいくつか紹介するにとどめよう。李春と趙州の石橋―隋代の建築学中国の河北地方では、「
Author: 史石 Year 1981 Issue 10 PDF HTML
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33. 隋代·彩釉陶駝
カラー参照シルクロード―といえば、誰しも、「砂漠の舟」の愛称でよばれる、らくだのことを想い起こす。いにしえの絹の道は、探険家·張騫(ちょうけん)が切り開いたということになっているが、はてしない砂漠、山間地帯、あるいは河畔を縫って、ヨーロッパ、アジア、アフリカの三州にまたがり、えんえん七〇〇〇キロもつづくとなれば、誰か、らくだ隊―キャラバンの功労をないがしろにする者があろうか?らくだこそ、まさに、絹
Author: 史石 Year 1981 Issue 10 PDF HTML
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34. 唐代の詩歌と散文
唐代の詩文、書画の精華は、現在にいたるも燦然とひかり輝いている。なかでも詩歌と散文は、ひときわ秀でた存在だといえよう。詩についていうならば、唐詩は中国古代詩の最高峰と認められており、少なくとも四万八千余首が今日にまで受け継がれている。李白、杜甫、白居易など有名な詩人のほか、後世に作品を残した唐代の詩人はなんと二千二百余人の多きにのぼっている。詩以外の文についていうならば、唐代の散文は中国の文学史上
Author: 史石 Year 1981 Issue 11 PDF HTML
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35. 五代·奔鹿文注子
今月号の古文物欄(グラフ)に紹介するのは、奔鹿文注子である。器の高さは一八·五センチ、腹径は一二センチ。「注子」とは古代の茶器の「壺」、つまり急須のことだが、唐·宋の時代(六一八~一二七九)には壺とよばず、「注子」とか「偏提」とかよぶのがならわしであった。注子のもともとの形は注ぎ口のついた罐(かん)(円筒状のウツワ)であった。それは、ふくらんだ胴に短い頸をもち、すでに実用的価値を失った耳がついてい
Author: 史石 Year 1981 Issue 11 PDF HTML
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36. 新石器時代·亀形提梁壺
カラー参照原始氏族制社会の陶器は、往々にして神秘的な色彩をもっているが、この亀形提梁壺(亀の形をし、把手が上についている―中心グラフ裏参照)のように、その神秘的色彩によって人に名状しがたい恍惚感を与える古陶もまれであろう。神秘といえば、まずその造型がひじょうに人目をひく。丸い輪を平らに置いた形状で、前方に注ぎ口、上部に把手、下方に四本の足がついている。高さは一〇·五センチ、注ぎ口から後尾まで二〇·
Author: 史石 Year 1981 Issue 12 PDF HTML
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37. 北宋の統一と危機
九六〇年の元旦のことである。後周の宮廷では君臣が一堂にあつまり新年の祝杯をあげていた。この席に、契丹(きつたん)·北漢(ほくかん)連合軍が大挙して南にくだり後周に向かっているという知らせがとどき、居ならぶ大臣たちをあわてさせる。大臣たらは、近衛軍主力部隊の統帥趙匡胤(ちようきよういん)を契丹·北漢連合軍討伐に向かわせる。趙匡胤が精鋭部隊である近衛軍をひきいて都開封の東北二十キロの陳橋という宿場にさ
Author: 史石 Year 1982 Issue 1 PDF HTML
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38. 宋·遼·夏·金の抗争
宋王朝(九六〇~一二七九)の三百余年、中国の広大な版図では南北朝の対峙する局面がつづく。宋王朝は、中原(当時の中国中央部)と江南(長江下流一帯)をその支配下においたが、北方においては遼(九一六~一一二五)が蒙古草原、東北地方、華北平原の一部を支配し、宋と遼とが中国大陸の南と北にそれぞれ政権をかまえていたのである。そのご、西北地方、東北地方で、夏(一〇三八~一二二七)、金(一一一五~一二三四)があい
Author: 史石 Year 1982 Issue 2 PDF HTML
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39. 南宋の偏安と滅亡
前号でふれた「靖康の変」による北宋の滅亡のあとも、中国の大地では南北朝併存という局面がつづいた。はじめは、金と南宋とが対峙したが、そのご蒙古が勃興して西夏を滅ぼし、また南宋と連合して金をも滅ぼした。そのあと、蒙古と南宋とのあいだにも争いがおき、蒙古軍は南宋最後の皇帝趙昺(ちようへい)を中国南部広東の海上に追いこみ水死させて、南宋の歴史にピリオドをうつ。こうして、南宋の時期にはおよそ百五十年にわたっ
Author: 史石 Year 1982 Issue 3 PDF HTML
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40. 玉彫人頭―殷人は東洋人だったか
カラー参照本号の古文物グラフに紹介した玉彫りの人頭(高さ五·五センチ)を見ていただきたい。おでこが出、馬面で、鼻は高いが口が小さく、くちびるは薄い。この顔を見て考えさせられるのは、三千余年前の東洋の古都であった殷墟(婦好墓)から出土したものにしては、東洋人の特徴があまりないことである。周知のように、ナイル河畔に建てられたピラミッドはエジプトの古代文明のシンボルであるが、しかし、ピラミッドを築いたの
Author: 史石 Year 1982 Issue 3 PDF HTML