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Your search : [ author:阿南·ヴァージニア·史代=文·写真 小池 晴子=訳] Total 77 Search Results,Processed in 0.083 second(s)
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1. 運搬船で楚州へ
円仁は、ついに天台山(現在の浙江省)での修行を許可されなかった。もはや、遣唐使一行とともに十隻の小舟に分乗して大運河沿いに北へ進み、一行を日本へ運ぶ船が待ち受けている場所へ向かう以外、道は無かった。八三九年旧暦二月二十四日、一行は昼食をとるために山陽県に立ち寄った。このとき、円仁は、「午後五時、城壁を廻らした楚州に着いた。……我々は開元寺に行き西の亭に宿泊した」と記している。一行はこの地に一カ月ば
Author: 阿南·ヴァージニア·史代=文·写真 小池晴子=訳 Year 2007 Issue 3 PDF HTML
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2. 登州で通行許可証を待つ
円仁と二人の弟子に従者を加えた四人は、山東半島の海岸伝いに、登州(現在の蓬莱市)都督府を目指した。四人にとって、今回が初めての四人だけの旅であり、かつ人々のお布施に頼って食と宿とを得る旅であった。円仁は、塩を採る場所を渉っていったと述べている。今日でも、浜辺には塩田が広がり、昔と同じ方法で海水を天日に干して塩を生産している。(写真①)円仁がたどった道筋を走る高速道路に、「牟平出口」の表示が出ていた
Author: 阿南·ヴァージニア·史代=文·写真 小池晴子=訳 Year 2007 Issue 6 PDF HTML
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3. 南宮から曲陽へ 唐代の道を行く
円仁による山東省徳州から河北省曲陽までの旅の描写によって、私たちは一行の巡礼生活がどんなものであったかを思い描くことができる。八四〇年旧暦四月十一日、一行は徳州で一夜を過ごした。「この家の主人は信仰心のない男だった」と円仁は記している。彼は先を急ぐあまり、鶏や陶磁器、木綿や黒いロバなどに目を向けるゆとりはなかったようだが、現在の徳州はこうしたものでよく知られている。運よく翌日の夜は、仏教徒である孫
Author: 阿南·ヴァージニア·史代=文·写真 小池晴子=訳 Year 2007 Issue 9 PDF HTML
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4. 五台山での円仁(1)「竹林寺」
五台山到着は、疲労困ぱいの旅路の果てのクライマックスであった。ロバを小さな僧院に預けて、円仁と弟子たちは高い嶺を越えて名刹竹林寺を訪ねた。円仁はこの聖山に二カ月滞在し(八四〇年旧暦五~六月)、集中的に数カ所の寺で学んだ。ついに円仁は、中国の高名な仏教の師について学ぶ機会を得たのであった。知識の追求こそが、海を渡り、中国諸官庁に対してこの遠い聖地への徒歩旅行を決然と願い出た、究極の目的であった。円仁
Author: 阿南·ヴァージニア·史代=文·写真 小池 晴子=訳 Year 2007 Issue 12 PDF HTML
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6. 盂蘭盆会を巡る
Author: 阿南·ヴァージニア·史代=文·写真 小池晴子=訳 Year 2008 Issue 5 PDF HTML
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7. 国際都市の宗教儀式
Author: 阿南·ヴァージニア·史代=文·写真 小池晴子=訳 Year 2008 Issue 8 PDF HTML
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8. 帰国の船を探す
Author: 阿南·ヴァージニア·史代=文·写真 小池晴子=訳 Year 2008 Issue 11 PDF HTML
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9. 唐の地を踏む
九世紀当時の日本において、遣唐使派遣は国家の重要な政策の一つであった。一行には唐朝廷を訪問する遣唐大使代表団のほかに、僧侶、職人、商人など中国の先進文化に学ぼうとする人々の一団も加わっていた。とりわけ中国の高僧の下で仏法の教えを学びたいと念願する学僧にとって、渡海は不可欠の経験とされていた。円仁は京都に近い比叡山延暦寺の高僧であり、その師最澄は、八〇五年唐において天台宗の教学を学び、教典と法具を携
Author: 阿南·ヴァージニア·史代=文·写真 小池晴子=訳 Year 2007 Issue 1 PDF HTML
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10. 黄海を渡る 海州から乳山へ
円仁一行は淮河伝いに大海へ向かった。八三九年旧暦三月、船団は当時の海州港を通過して黄海へと乗り出していった。円仁は八四五年から八四七年にかけて、日本へ帰る船便を求めて何度かこの地に戻っている。海州は、唐代にあっては重要な港湾都市であったが、現在では近代都市連雲港の一地区に過ぎない。しかし、今でも往時の海州の遺物を多数目にすることができる。(写真①)旧市街で仏教との関わりを探していると、「百子庵」と
Author: 阿南·ヴァージニア·史代=文·写真 小池晴子=訳 Year 2007 Issue 4 PDF HTML