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Your search : [ author:写真·文 周衛軍] Total 538 Search Results,Processed in 0.087 second(s)
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71. 大乗之閣
河北省東北部にある承徳は清皇帝の離宮―避暑山荘で内外に知られているが、周囲に分布する十二の寺院の中でもラマ僧の住む八つの寺院「外八廟」は清時代の重大な政治的事件や民族統合の歴史を反映する宗教建築として名高い。乾隆二十年(一七五五)、清政府は准噶爾(ジユンがル)部族の反乱を平定し、帝政ロシアの領土拡張の野望を挫いた。その勝利を祝い、帰順した各部族を安撫する目的で建てられたのが普寧寺である。大乗之閣は
Author: 写真·文 芒琉 Year 1993 Issue 12 PDF HTML
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72. 戦史の語り部 漢の兵馬俑
一九八四年十二月、戦史に名高い江蘇省の古い都市、徐州にビッグニュースが……。それは、あるれんが工場が東郊の獅子山でブルドーザーで採土中に、地下に眠っていた二千余年も昔の楚国の兵馬俑が出てきたという大発見である。「俑(よう)」とは古代副葬品として用いた土偶·土人形のことで、考古学者らの慎重な発掘を経て、徐州兵馬俑は今のところ四つの歩兵俑坑と一つの馬俑坑から発見され、その総数は四千体以上に達する。これ
Author: 写真·文 狄華 Year 1994 Issue 3 PDF HTML
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73. 沙坡頭 砂丘に出現した奇跡
四十年前、内蒙古自治区の包頭と甘粛省の蘭州とを結ぶ包蘭鉄道の建設が始まった。延長九七九キロ、中国の西北部を横断する大プロジェクトだったが、とくに注目されたのが寧夏回族自治区中衛県にある沙坡頭(シャーポートウ)地区の工事で、大量の砂漠改造チームがこれに投入された。沙坡頭は、中国第四の大砂漠、テンゲル砂漢の東南端に位置しているが、気候は極めて劣悪。工事の成否は、強風のため一年に四メートルも移動する砂を
Author: 写真·文 郭実 Year 1994 Issue 4 PDF HTML
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74. ダンス熱都市をいろどるー風景
つい10年前まで、中国人のほとんどは「競技ダンス」などというものの存在を全く知らなかった。だが昨年は、北京、上海、武漢、大連などの大都市で、全国的あるいは国際的な規模での競技ダンスの大会が相次いで開かれている。たくさんのマニアがダンス教習所に通い、あるいは街角で手軽に楽しみ、いまや中国には、相当な「ダンス熱」が定着したと言えるだろう。一九八六年に日本の舞踊家、山口繁雄氏が北京を訪問し、中国人に国際
Author: 写真·文 郭実 Year 1994 Issue 4 PDF HTML
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75. 「快餐ファーストフード」ビジネスは花盛り
中国語で言う快餐―つまりファーストフードは、中国人にとっては別に耳新しい言葉ではない。すでに一九八○年代初期、改革開放政策が人びとの生活のテンポを速めた時期に、都市の目抜き通りのあちこちに「快餐」の看板をかけた店が登場した。だが当時はまだ中身がお粗末で、プラスチックの容器になにがしかのおかずを盛っただけというものだった。そのファーストフード市場の将来性に注目したのが、経験豊富な外国資本だった。ケン
Author: 写真·文 郭実 Year 1994 Issue 6 PDF HTML
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76. 学車族 自動車教習所は大はやり
北京で「学車族」という言葉がはやり出した。自動車の運転を習う人のことだが、プロの運転手をめざす人だけでなく、一つの技能として運転を身につけようという人が増えてきたのがその特徴。例えば公司の社長、秘書嬢などがそうで、自分で運転できれば便利だし、運転手を雇う必要もない。もう一つ言うならば、社長自らが運転したからといって少しも恥ずかしくはない、という社会通念の変化もあずかっている。その実態を語る数字がい
Author: 写真·文 馮進 Year 1994 Issue 10 PDF HTML
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77. インインの入学式
私の名前は張明、36歳、ある公司の社長付運転手、妻は北京飯店に勤めています。月給は合計1500元くらい。私の両親も同居していますが、まあ幸せな一家と言えるでしょう。娘のインインは1987年9月20日生まれ。中国では満6歳になった者が小学校に入りますので、娘も94年9月に入学しました。中学校卒業までは学費は要りませんが、書籍、校服、給食、身体検査、健康保険などは自弁です。今までも、娘の衣食、教育費に
Author: 写真·文 馮進 Year 1995 Issue 1 PDF HTML
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78. 8頭から70頭へ トウホクトラ繁殖センター8年の成果
トウホクトラ(東北虎)は、シベリアトラとも呼ばれる。中国東北部とシベリア地方に住んでいるからだ。体長三メートルを超える威容と、額の部分の斑紋が「王」の字のように見えるところから「獣の王」と言われるが、人間の自然破壊のため今や絶滅の危機に瀕している。一九七〇年代半ばの調査では、野生のトウホクトラはわずか八十頭あまりしかいなかった。八〇年代にはもう痕跡を発見することも困難になり、「基本的にはすでに絶滅
Author: 写真·文 郭実 Year 1995 Issue 3 PDF HTML
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79. 草原に生きる牧畜の民
額爾古納(エルグン)河は中国東北部の大興安嶺に源を発して、その流れは内蒙古自治区の呼倫貝爾(フルンボイル)盟を潤し、主流は一五二〇キロ流れて黒竜江に繋がっている。早くも七、八世紀には、蒙古族がこの地域で生活を営んでいたが、一六八九年に清国政府と帝政ロシアとの間で「尼布楚(ネルチンスク)条約」が結ばれ、額爾古納河が中国とロシアを分ける国境線と決まった。一九九四年八月、私の額爾古納河探訪がスタートした
Author: 写真·文郭実 Year 1995 Issue 3 PDF HTML
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80. 黒山頭の古城の跡
オウンク草原に別れを告げて、一人で額爾古納(エルグン)河流域で最初に出合う町―黒山頭鎮に向かった。北の辺境地帯では、町と言っても南方のようにたて込んでいない。黒山頭鎮と言ったって、草の生い茂った丘の上に、家々が勝手気ままに散らばっているのだ。二十世紀はじめ、河北省や山東省から流れてきた漢族と、シベリアから南下してきたロシア人たちが額爾古納河の中·下流の一帯に住み着き、毛皮や山の幸を持って河沿いに海
Author: 写真·文 郭実 Year 1995 Issue 4 PDF HTML