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Your search : [ author:写真·文 若虹] Total 630 Search Results,Processed in 0.093 second(s)
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21. 倮姑から河口へ
翌日の朝、さわさわという溪流の音で目をさました。朝食をすませて、旅の終点、中国·ベトナム国境の町、河口に向かう準備をする。われわれは保線車で「人字橋」に行くことにした。橋げたが「人」字形に似ているこの橋は、谷の深さ二〇〇メートル、山と山の距離六七メートルの所にかけられているもので、橋の高さは九七メートルだ。全線随一の難所である。フランスの技師ポールボチン女史が設計し、一九〇七年三月に着工、翌年十二
Author: 写真·文 馮進 Year 1993 Issue 9 PDF HTML
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22. 阿壩(アバ)草原の人びと
8月初めの成都は、たいへんな暑さだった。だが、西北へ直線距離にして約300キロの阿壩チベット族·チャン(羌)族自治州まで来ると、そこはまさに別天地だった。高山と峡谷が入り乱れ、その高度差は1500~3000メートル。気候の垂直分布もみごとに顕著で、わずか20日間の取材旅行中に、亜熱帯、温帯(そこにも、比較的暖かいところと、比較的寒いところがあった)、寒帯の気候と万年雪の積雪地帯を体験した。たった1
Author: 写真·文 狄華 Year 1993 Issue 10 PDF HTML
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23. 開封の宋菜
開封は、戦国時代の紀元前三六二年、山西にいた魏がこの地に都を移して以来、七つの王朝の都となり、それゆえに「七朝の古都」と呼ばれる。九六〇年宋(北宋)の都となってからは、長安、洛陽に替わる政治経済の中心として、大いに繁栄した。とくに宋は、この都の商業的繁栄に力を注いだ。従来の坊里制度を廃し、道路沿いに商店、料亭、茶店などを積極的に設けた。料亭は七十二軒もでき、「宋菜」と呼ばれる独自の料理が生まれた。
Author: 写真·文 狄華 Year 1993 Issue 10 PDF HTML
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24. 吊井から哈妮宮へ
この三月、中国の女子バレーボールナショナルチームが猛洞河を漂流したと聞いて、私も「天下第一の流れ」と言われるこの地を訪れてみたいと思った。それが実現したのは、水量の最も多い六月の終わりである。湖南省西部、トウチャ族ミャオ族自治州の永順県を流れる猛洞河。百キロの沿岸は、密林や深い谷、生息·生育する珍しい動植物、少数民族の習俗など、都会では味わうことのできない素朴で自然豊富な世界を楽しめる。湖南省の省
Author: 写真·文 郭実 Year 1993 Issue 10 PDF HTML
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25. 哈妮宮から王村へ
猛洞河上流の河下りは、トウチャ族の古代史漫遊といってもよかったが、中流には危険がいっぱいの激流が待ちかまえている。哈妮(ハニ)宮から王村までの三五キロは、もっとも早く開発された猛洞河下りのコースだ。中でも哈妮宮から牛路河大橋までの十数キロは浅瀬が多くて流れも速く、到る所に岩があって、水路もめまぐるしく変わり、冒険好きが挑戦したくなる部分である。この日、日が昇るとすぐ、われわれは八人一組になってゴム
Author: 写真·文 郭実 Year 1993 Issue 11 PDF HTML
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26. 潮汕菜
広東省の潮州、汕頭(スワトウ)地方でつくられている潮汕菜は、中国四大料理の一つ、広東菜(粤菜=ユエツァイ)の分流。ほかにも、広州菜、客家(ハッカ)菜、海南菜などの分流があるが、いまいちばん好まれているのが、ここに紹介する潮汕菜だ。そのルーツは、遠く唐代にさかのぼる。唐宋八大家の一人に数えられる韓愈(七六八~八二四)が、仏骨を宮中に迎えようとした皇帝憲宗を諫めたため潮州刺史に左遷され、それとともに中
Author: 写真·文 狄華 Year 1993 Issue 12 PDF HTML
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27. 『芙蓉鎮』の町、王村鎮
猛洞河の本流と支流は合流したのち王村鎮に至る。王村鎮は湖南省西部で二千年の歴史を持つ古い町だ。河をさかのぼれば四川、貴州に通じ、下れば湖北、上海に達する水陸の要地である。歴史的に見ると、王村鎮はトウチャ(土家)族の王が役所を置いた地で、唐代に至りトウチャ王は役所を数十キロ離れた町、老司城に移した。水陸の交通が便利なため、今世紀初頭、王村鎮では商業が発達し、大小の商店が数百軒、桐油、茶油(茶の実から
Author: 写真·文 郭実 Year 1993 Issue 12 PDF HTML
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28. 広東省石湾の置物陶器
石湾は広州から三十キロほどの所にある。昔から陶器作りが盛んで、その製品は国内をはじめ諸外国に輸出されている。とくに石湾の瓦は天下一品と評されてきた。しかし古い資料をみても石湾窯のことはあまり書いていないので、いつから陶器作りが始まったかはっきりしない。それでも、唐代には一定の規模で手工業生産が始まっていたことは確かだ。一九五七年と六二年に石湾と南海県から唐代の窯跡群が見つかり、石湾の陶器生産はその
Author: 写真·文 狄華 Year 1993 Issue 12 PDF HTML
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29. 大乗之閣
河北省東北部にある承徳は清皇帝の離宮―避暑山荘で内外に知られているが、周囲に分布する十二の寺院の中でもラマ僧の住む八つの寺院「外八廟」は清時代の重大な政治的事件や民族統合の歴史を反映する宗教建築として名高い。乾隆二十年(一七五五)、清政府は准噶爾(ジユンがル)部族の反乱を平定し、帝政ロシアの領土拡張の野望を挫いた。その勝利を祝い、帰順した各部族を安撫する目的で建てられたのが普寧寺である。大乗之閣は
Author: 写真·文 芒琉 Year 1993 Issue 12 PDF HTML
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30. 戦史の語り部 漢の兵馬俑
一九八四年十二月、戦史に名高い江蘇省の古い都市、徐州にビッグニュースが……。それは、あるれんが工場が東郊の獅子山でブルドーザーで採土中に、地下に眠っていた二千余年も昔の楚国の兵馬俑が出てきたという大発見である。「俑(よう)」とは古代副葬品として用いた土偶·土人形のことで、考古学者らの慎重な発掘を経て、徐州兵馬俑は今のところ四つの歩兵俑坑と一つの馬俑坑から発見され、その総数は四千体以上に達する。これ
Author: 写真·文 狄華 Year 1994 Issue 3 PDF HTML