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Your search : [ author:雪生] Total 14 Search Results,Processed in 0.100 second(s)
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1. 唐·銀鎏金鳳紋大盒―料理を盛る「蓋もの」考
カラーグラフ参照「美食は美器に如(し)かず」という人がいるが、これはもちろん極端な言い方で、実さいに、どんなごちそうでも、粗末な器に盛ったら、やはりふさわしくあるまい。杜甫の詩に「紫駝の峰(ラクダのコブ肉、珍味)は翠釜より出で、水精(水晶)の盤に素鱗(銀鱗の魚)を行(や)る」(麗人行)とあるのは、佳肴と美器の取り合わせを讃えたものだ。本号グラフ「古文物」の銀鎏金鳳紋大盒は、そうした美器中の美器とい
Author: 雪生 Year 1984 Issue 5 PDF HTML
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2. 前漢·彩絵指揮俑
カラーグラビア参照陝西省咸陽市の北郊に東西にのびる高原台地があり、そこには大型陵墓の封土堆がいくつもある。ここの漢の高祖劉邦の長陵と景帝劉啓の陽陵の間で一九六五年の夏、耕地を整備していた農民によって大量の彩絵陶俑が発見された。以来、専門家の手で四号墓、五号墓とその随葬坑から、騎兵俑五八三、各種人俑一九六五、盾の模型四一〇が発見されているが、人俑の中では武士の装束をしたものが大部分を占め、跳舞、奏楽
Author: 雪生 Year 1985 Issue 3 PDF HTML
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3. 後漢·陶盤角綿羊
カラーグラビア参照湾曲した大きな角をもつ陶製のこの羊は、一九七八年の暮に、陝西省勉県の老道寺人民公社の農民が、公道ぞいの古代の墓のそばで土を採っていたときに発見された。同じ墓から出土した大量の緑釉陶器や五銖銭から推測して、これは後漢のもので、墓を鎮護するために埋められていたものである。墓鎮は普通の住宅では家内安全の魔よけにあたるものだ。墓鎮は古くからあったが、盛んになったのは商、周代からである。中
Author: 雪生 Year 1985 Issue 9 PDF HTML
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4. 殷墟婦好墓玉人服飾
殷墟は、殷代後期の都城で、今日の河南省安陽の西北郊外にある。一九七六年六月、洹水南岸の殷墟の中心にあたる小屯村の北で、小規模な墓葬が発掘された。墓主は殷王武丁(前一三二四~前一二六五)の配偶者である婦好で、墓室中の副葬品は精美をきわめていた。本文に紹介する玉人がその内の一つなのである。玉人は黄茶色をしており、高さは七センチ。男子はひざまずいて両手を膝においている。長い辮髪が右耳の後側をへて頭上から
Author: 雪生 Year 1986 Issue 1 PDF HTML
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5. 西周·青銅盔
殷朝最後の王、紂を滅ぼした周の武王は、召公を燕に封じた。燕は西周北方の重要な封国で、領地も広大であり、今日の北京郊外瑠璃河と昌平県に位置する。一九七五年前半、考古学者は昌平県東南の白浮村付近にある木槨墓三つを発掘し、青銅器、陶器、玉器、非常に珍しい西周甲骨文の欠片など数百点が出土した。墓室構造と副葬品からみると、瑠璃河の殷周墓から発見された「匽侯」銘をもつ青銅器の特徴と基本的に一致するため、この墓
Author: 雪生 Year 1986 Issue 2 PDF HTML
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6. 戦国·銀首銅身塡漆俑灯
中山国は、春秋末期から戦国時代(紀元前六世紀~前三世紀初め)にかけて少数民族の白狄(てき)が建てた侯国で、中国北部太行山東麓、現在の河北省保定、石家荘両市西の丘陵地帯にあった。歴史にいう「戦国七雄」―斉、楚、燕、韓、趙、魏、秦以外の重要な諸侯国のひとつ。それに関する史書の記載はわずかで、しかも散逸したものも多い。新中国成立後も考古学上の発見がなされているが、特に一九七四年以後、河北省考古学関係者は
Author: 雪生 Year 1986 Issue 3 PDF HTML
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7. 戦国·金鑲嵌銀帯鉤
斉·楚·燕·韓·趙·魏·秦の七雄が割拠し、兵戈(か)の絶え間なかった戦国時代(前四七五~前二二一)、燕·趙·魏三国の間に白狄人が打ち立てた中山国があった。精鋭の兵士と優れた武器を誇り、中原を舞台に隣国と激しい戦いを演じていた。写真の金鑲嵌銀帯鈎は一九七七年、河北省平山県三汲村に残る中山国王?(さく)墓から出土したもの。長さ一八·六センチ、重さ二八五グラム。銀製で、鈎は蛇の頭をかたどり、身の部分には
Author: 雪生 Year 1986 Issue 4 PDF HTML
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8. 後漢·説唱陶俑
四川省成都の東北、新都県の馬家山に後漢時代の崖墓群が残っている。石の崖に洞穴を穿って墓室とするのは古代埋葬形式のひとつで、後漢、六朝時代に四川で流行した。一九七九年から八〇年にかけて、省·県の文物関係者がこの一帯の墳墓二十一基を発掘·整理し、また八二年にも、新たに一基の墓が掘り出された。本号の説唱俑は、この馬家山二十二号墓から出土したもの。俑の高さは四八センチ、先端に花飾りのついた頭巾を被り、胸と
Author: 雪生 Year 1986 Issue 6 PDF HTML
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9. 唐·彩絵高髻女俑
唐代は、二千年以上にわたる中国の封建社会にあって、古代文化が美しく花ひらいた時代である。多彩な女性の服飾から、きらびやかな唐代文化芸術の一端をうかがい知ることができる。あるいは壁画に、あるいは出土文物に、当時の風俗が今に生き生きと留められている。今月号の「古文物」にとりあげた「彩絵陶高髻女俑」は、そうした出土文物の中の逸品である。魏·晋以降、女性は上衣を着用するようになるが、しだいに丈が短くなり、
Author: 雪生 Year 1986 Issue 8 PDF HTML
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10. 宋·加彩男子俑
「首、頭也、服、衣服也」。現代中国語で言えば、「首服」とは帽子、頭巾のことである。古人は髪をじつに大切にした。髪や皮膚も親の授かり物で傷つけてはならないと考え、髪は長めにした。髪形には男女の区別はなく、散切りが大方であったが、のち、生活上の不便さから縄で結わえるようになった。獣骨や玉石を研ぎ出しにした同形の小片がいくつか出土しているが、これを縄で綴り合わせて髪を束ねたという。これが最も古い首服であ
Author: 雪生 Year 1986 Issue 9 PDF HTML