Current Location: Home » Full Text Search
Your search : [ author:本誌記者 孫聰宝] Total 323 Search Results,Processed in 0.107 second(s)
-
241. 西行の絶景―麦積山石窟
西安を発ち、渭河の渓谷ぞいに西行する。急流が時には車窓の左を、時には右を走る。狭く深い渓谷のかたわらを小径がどこまでも続く。濁流とそれに沿う小径を眺めて、ふと思った。「これは唐代の高僧玄奘が経巻を招来するため西行したとき通った道ではなかろうか。漢代の張騫(ちようけん)が西域へ向う途中、馬に水を飲ませたのはこの河ではなかろうか」列車はいくつものトンネルを抜け、鉄橋を渡り、渓谷をめぐるようにして登って
Author: 本誌記者 車慕奇 Year 1979 Issue 4 PDF HTML
-
242. 黄河越え
シルクロードの東の部分は甘粛省を横切る黄河に切断されているので、古人は長安を発って西域に向かうのに、黄河越えをしなければ、西域に通ずる帯状のオアシス地帯―河西回廊に入ることができなかった。私は汽車で西安を発ち、天水を経て甘粛省の省都蘭州に着き、そこから黄河を渡り河西に向かった。しかし、漢や唐の時代の人が西行する場合は今の鉄道や道路の路線を通ったわけではない。蘭州に着いてから、私は歴史地理の研究者に
Author: 本誌記者 車慕奇 Year 1979 Issue 5 PDF HTML
-
243. 河西回廊に入る
蘭州から西に向かう蘭新鉄道の車窓から、流れ去る景色をむさぼるように見ていた。どこまでも澄みわたる空の、何という青さ。点々たる白楊樹はすでに黄ばんだ秋の装いで、空の青に思いきり身をのばしている。木々の向うの遠い山なみの、まろやかでありながら、どっしりとした姿に安らぎを覚える。砂礫と卵石をしきつめた限りない大地は、荒っぽくもあれば豪快でもある。初めて河西回廊に入って、何となく西北奥地の風光が判ったよう
Author: 本誌記者 車慕奇 Year 1979 Issue 6 PDF HTML
-
244. 祁連山と胭脂山のふもと
隋の煬帝(ようだい)の西行巡遊隋の煬帝が江南に下(くだ)った話は中国でよく知られている。豊かにめぐまれた江南に遊ぶため、煬帝は黄河、淮(わい)河、長江をむすぶ運河の開削を命じ、みずからは四層の竜舟(天子の御船)に乗りこみ、后妃、王公、僧尼、百官、侍従など十万から二十万人をともない、みやこ洛陽から威風堂々と江都(いまの揚州)に南下した。途上、数千艘の船は首尾相接し延々と長さ百キロにおよんだ。煬帝はま
Author: 本誌記者 車慕奇 Year 1979 Issue 7 PDF HTML
-
245. 黒水河畔から嘉峪関へ
唐の詩人白居易(楽天)は、ある筆禍事件に連座して、九江(江西省)の司馬に左遷され、翌年秋、湓浦口(ぼんほこう)(九江府城の西にある。別名は盆水)に友人を送ったところ、夜船中から妙なる琵琶の音が聞こえ、みやこの調べがあるのを不思議に思い、そのぬしを尋ねると、もとは長安の妓女であり、穆(ぼく)、曹(そう)の二善才に琵琶を学んだが、年長じ色衰えるに及び商人の妻となり、いまは零落の身を異郷に過ごしていると
Author: 本誌記者 車慕奇 Year 1979 Issue 8 PDF HTML
-
246. 三関行―嘉峪関、玉門関、陽関
「天下第一の雄関」万里の長城の東端、渤海湾(ぼつかいわん)に臨む山海関には、「天下第一関」の額がかかり、万里の長城の西端、ゴビ砂漠に位置する嘉峪関には、「天下第一雄関」の額がある。後者の方が「雄」の字だけ多いが、この二つの「関」は共に「天下第一」を称している。古人は、「天下第一」という言葉を名勝の賞め言葉として常用した。それ自体、さして責める気もしないが、「天下第一泉」とか、「天下第一橋」とか乱用
Author: 本誌記者 車慕奇 Year 1979 Issue 9 PDF HTML
-
247. 莫高窟とシルクロード
敦煌の県城に着いた晩、常書鴻敦煌文物研究所所長に電話し、先に陽関と玉門関を見に行き、帰ってから莫高窟を再訪するむね伝えた。受話器から、やわらかな落着いた声が戻ってきた。「よくいらっしゃいました。まだ撮影するのですか。もう敦煌の別册は出したのに」「いえ、今度は敦煌芸術とシルクロードの関係を知りたいと存じまして……」莫高窟再訪一九七五年、私とカメラマンの狄祥華さんは莫高窟の精彩ある壁画、塑像に魅せられ
Author: 本誌記者 車慕奇 Year 1979 Issue 10 PDF HTML
-
248. 天山北路の古道
玄奘の苦難唐の高僧玄奘(げんじよう)(三蔵法師)が西方へ旅をしたさい、玉門関をはなれて西域に踏みこみ、最初にたどりついた宿駅が、伊吾(イウ)すなわち今日の哈密(ハミ)であった。玉門関を後にして西北コースに沿っていくと、五〇キロおきに烽火台が五つ立っている。五つ目の烽火台を過ぎるともう莫賀延砂漠であって、空には鳥のかげもなく、地にはけものの姿もなく、水もなければ草もない。昼間は強風が吹きあれて、雨の
Author: 本誌記者 車慕奇 Year 1979 Issue 11 PDF HTML
-
249. 木塁河から天山の牧場へ
唐代の古路唐代には、西域の玄関口伊州(ハミ)から天山の北の政治的、軍事的中心北庭(吉木薩爾(ジムサル))に至り、更に西のイリ河を経て砕葉(すいよう)(唐代の詩人李白の出生地、現在のソ連イシク湖湖畔)に達する大道があった。この東西に通じるルートを往来する使臣や隊商の安全を確保するため、沿道のところどころに「守捉(しゆそく)」が置かれた。「守捉」は軍事拠点の意味で、「羅護守捉」「黒水守捉」その他がある
Author: 本誌記者 車慕奇 Year 1979 Issue 12 PDF HTML
-
250. ジムサルとウルムチ
唐の極盛期には、西の境域はカスピ海にまで及び、西域の広大な地区を管轄するため、二つの政治的·軍事的センターが設けられた。その一つは安西都護府で亀茲(きじ)(今の新疆庫車県)に設けられ、天山山脈と砕葉河の南の地域を綏撫し、もう一つは北庭都護府で庭州(今の新疆吉木薩爾(ジムサル)県)に設けられ、天山以北と、カスピ海以東の地域を管轄した。辺塞詩人の古城私は奇台県を去り、シルクロードの北ルートを三七キロ西
Author: 本誌記者 車慕奇 Year 1980 Issue 1 PDF HTML