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Your search : [ author:楊天乙 写真·郭実] Total 112 Search Results,Processed in 0.100 second(s)
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11. 杭州に抱朴道院を訪ねる
杭州の西湖の北岸にある葛嶺は、標高わずかに一六六メートルの山だが、有名な道教の理論家、煉丹家、医学者である葛洪(かつこう)(二八四~三六四)にちなんで名付けられた道教の名山である。葛洪は道号を抱朴子といい、道教の経典『抱朴子』を著した。そのため葛洪を祭る山中の道院は后世の人びとから「抱朴道院」と呼ばれてきた。風光明媚な西湖は四季を通して観光客で賑わう。だが西湖から一キロ足らずの抱朴道院は俗世間を離
Author: 文·楊天乙 写真·郭実 Year 1997 Issue 11 PDF HTML
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12. 沖虚古観に葛洪の足跡を尋ねる
山紫水明の西湖とはいえ、眺めているだけで食べていけるところではない。やむをえず、五年後には山林を出て官職についた葛洪だが、親友の郭文が死すると、人生の空しさを痛感し、再び隠遁生活に入る。有名な志怪小説『捜神記』の作者、東晋の干宝の推挙もあったが、出仕を断りつづけた。三三三年、年齢を意識し、煉丹を急がねばと、丹砂の産出地である交趾郡勾漏県(今の広西チワン族自治区境内)の県令の任を買って出る。あの才覚
Author: 文·楊天乙 写真·郭実 Year 1997 Issue 12 PDF HTML
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13. 壮麗な玉隆の万寿宫-許遜の遺跡と伝説
広州から北京に戻る列車の中で、張道陵、葛洪とともに『西遊記』に登場する四大天師の一人許真君[注释1]のことが気に掛かってならなかった。そこで南昌(ナンチャン)で下車して許真君の足跡を追うことにした。許真君は葛洪と同じ時代を生きた道士許遜(きょそん)のことである。字(あざな)は敬之、高陽(現在の河南省汝南(ルーナン))の人で、長く豫章(よしょう)(同南昌)に住んだ。旌(せい)陽(よう)(同湖北省枝江
Author: 文·楊天乙 写真·郭実 Year 1998 Issue 1 PDF HTML
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14. 新天師道発祥の地
紀元四二三年、道士寇謙之(こうけんし)(三六五~四四八年)は還暦に近い身で、長年修行していた嵩山(すうざん)(いまの河南省にある)を出て、北魏(ほくぎ)の都平城(へいじよう)(いまの山西省大同(タートン)市)に向かった。ここから中国道教史上の新しい一ぺージが開かれる。張魯(ちょうろ)が世を去った後、天師道は組織が揺るぎ、綱紀が緩み始め、内部に混乱が現れた。そして葛洪(かつこう)、許遜(きょそん)の
Author: 文·楊天乙 写真·郭実 Year 1998 Issue 2 PDF HTML
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15. 山中に仙境あり―陸修静と廬山
廬山(ろざん)は中国に数ある名山の中でも最も文化の香りの高い山である。漢代、紀元前二世紀の大歴史家司馬遷(しばせん)が『史記』の中で、「南方の廬山に登った」と記した時から、この山は中国の文化史に登場する。魏晋(ぎしん)南北朝時代の四世紀から五世紀にかけ、仏教の宗師恵遠(けいえん)と道教の宗師陸修静(りくしゆうせい)が廬山に登り、教えを広めたので、さらに広く注目されるようになった。また彼らと同じ時代
Author: 文·楊天乙 写真·郭実 Year 1998 Issue 3 PDF HTML
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16. 山頂に棚引く白雲―陶弘景と茅山
西暦五〇一年、蕭衍(しょうえん)が挙兵して斉(せい)を倒し、皇帝(南朝の梁(りょう)の武帝)を名乗って梁を打ち立てる。その後、政権奪取に当たって自分を支持し、国号まで付けてくれた道士陶弘景(とうこうけい)(四五六~五三六年)に感謝の意を込めて、何度も出仕を要請したが、彼は南京の近くの茅山(ぼうざん)に隠居して頑として応じない。一体、あの山の中に何があってそんなに離れ難いのか、と武帝が尋ねると、陶弘
Author: 文·楊天乙(ヤンティエンイ) 写真·郭実(クオシー) Year 1998 Issue 4 PDF HTML
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17. あつい信仰を集まる孫思邈―薬王山と道教医学
観光バスに乗って西安から耀(ヤオ)県まで北上、それからオート三輪に乗り換えて薬王山(やくおうざん)に向かう。これまで回ってきた道教の聖地にはだいたい薬王廟(びょう)か薬王殿、薬王洞があって、お参りの信徒たちが引きも切らずに訪れていた。人々は昔から長寿と健康を願って、熱心に薬王を拝んだ。北京の白雲観といわず、台湾の鼓山廟といわず、薬王の像の前に来ると信者でない観光客までが線香を立て、自分や家族の無病
Author: 文·楊天乙(ヤンティエンイ)写真·郭実(クオシー) Year 1998 Issue 5 PDF HTML
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18. 永楽宮の壁画と呂洞賓伝説
山西省·芮城(ルイチョン)にある永楽宮の道教壁画は敦 煌(トゥンホアン)の壁画に引けを取らないと聞き、前からあこがれていた。その後、芮城が呂洞賓(りょどうひん)の故郷だと知って、いやが上にも訪ねてみたい気持ちになった。西安(シーアン)の八仙宮を後にして鉄道で東の黄河(ホアンホー)を渡り、風陵渡(フォンリントウ)で長距離バスに乗り換え、芮城に直行した。道教関係のほとんどの資料には、呂洞賓はいまの山西
Author: 文·楊天乙(ヤンティエンイ) 写真·郭実(クオジー) Year 1998 Issue 7 PDF HTML
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19. 終南山に全真道を訪ねる―王重陽と大重陽万寿宮
唐·宋時代に全盛期を迎えた道教は、遼(りょう)の時代に入ってから衰退の一途をたどるが、王重陽(おうちょうよう)(一一一二~一一七〇年)が全真道(ぜんしんどう)を開くと、金(きん)·元(げん)時代にかけて勢いを盛り返した。王重陽は道教史に大きな足跡を残した人物。道教の寺院には必ず王重陽と七人の弟子の塑像や画像が祭られている。特に王重陽の生涯を描いた山西省芮城(ルイチョン)県にある永楽宮(えいらくきゆ
Author: 文·楊天乙(ヤンティエンイー) 写真·郭実(クオシー) Year 1998 Issue 9 PDF HTML
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20. 刻まれた『道徳経』-全真道揺らんの地を訪ねる
中国の文化史上、王重陽(おうちようよう)の山東行脚は老子(ろうし)が函谷関(がんこくかん)を出て西方に赴いた話ほどは重視されていない。しかし、これが全真道の創始と道教復興のきっかけとなったことはだれもが認める事実である。快適な列車に乗って缶ビールを飲みながら、その昔、たく鉢して飲みつ歌いつ長旅を続けた王重陽の気持ちを想像するのは難しい。だが、宗教的な執念もさることながら、海への強いあこがれが、うま
Author: 文·楊天乙(ヤンティエンイー) 写真·郭実(クオーシー) Year 1998 Issue 10 PDF HTML