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Your search : [ author:本誌記者 車慕奇] Total 345 Search Results,Processed in 0.115 second(s)
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11. 天山北路の古道
玄奘の苦難唐の高僧玄奘(げんじよう)(三蔵法師)が西方へ旅をしたさい、玉門関をはなれて西域に踏みこみ、最初にたどりついた宿駅が、伊吾(イウ)すなわち今日の哈密(ハミ)であった。玉門関を後にして西北コースに沿っていくと、五〇キロおきに烽火台が五つ立っている。五つ目の烽火台を過ぎるともう莫賀延砂漠であって、空には鳥のかげもなく、地にはけものの姿もなく、水もなければ草もない。昼間は強風が吹きあれて、雨の
Author: 本誌記者 車慕奇 Year 1979 Issue 11 PDF HTML
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12. 木塁河から天山の牧場へ
唐代の古路唐代には、西域の玄関口伊州(ハミ)から天山の北の政治的、軍事的中心北庭(吉木薩爾(ジムサル))に至り、更に西のイリ河を経て砕葉(すいよう)(唐代の詩人李白の出生地、現在のソ連イシク湖湖畔)に達する大道があった。この東西に通じるルートを往来する使臣や隊商の安全を確保するため、沿道のところどころに「守捉(しゆそく)」が置かれた。「守捉」は軍事拠点の意味で、「羅護守捉」「黒水守捉」その他がある
Author: 本誌記者 車慕奇 Year 1979 Issue 12 PDF HTML
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13. ジムサルとウルムチ
唐の極盛期には、西の境域はカスピ海にまで及び、西域の広大な地区を管轄するため、二つの政治的·軍事的センターが設けられた。その一つは安西都護府で亀茲(きじ)(今の新疆庫車県)に設けられ、天山山脈と砕葉河の南の地域を綏撫し、もう一つは北庭都護府で庭州(今の新疆吉木薩爾(ジムサル)県)に設けられ、天山以北と、カスピ海以東の地域を管轄した。辺塞詩人の古城私は奇台県を去り、シルクロードの北ルートを三七キロ西
Author: 本誌記者 車慕奇 Year 1980 Issue 1 PDF HTML
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14. マナス河からサイラム湖へ
ウルムチからイリ河畔の伊寧(グルジャ)市までは西へ七〇〇キロ余り。漢代の地図ではその長途の行程が空白に近く、城郭らしいものは無い。唐代になって、途上に「守捉(しゆそく)」と呼ばれる幾つかの軍事拠点が出現し、文献に張堡、葉河、東林、西林などの名を留めるが、今は跡形もない。ただ、マナス河の河畔、石河子市に遠からぬ処に正方形の土城壁の跡があり、傍らに烽火台らしき高みがある。ここは、いまだに発掘されていな
Author: 本誌記者 車慕奇 Year 1980 Issue 2 PDF HTML
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15. イリ地方
「果実の谷」のこと山中の湖サイラム湖からイリ地方へと南下し、三〇キロの延長をもつダロチ山峡に沿う曲りくねった自動車道路を行く。両側は松や杉の緑も鮮かな山なみで、見下せば、峡谷のいたる所湧き出る水が一本の川をなしている。路傍にはしきりに野生のリンゴとアンズが見られ、その香りにうっとりする。この静かな山峡に「果実の谷」という美称があると聞いていたが、納得した。ウルムチからイリ盆地への陸路では、「果実の
Author: 本誌記者 車慕奇 Year 1980 Issue 3 PDF HTML
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16. 中路の要衝「火州(トルファン)」
シルクロード北路をたどって中国西部国境まで行ってきてから、私はウルムチへもどって一息いれ、東行してトルファンへ赴き、新疆南部の旅を始めた。新疆南部でシルクロードはタクリマカン大砂漠の南縁と北縁に沿い自ずと二つ―中路と南路―に分かれる。トルファンは中路の一要衝である。『隋書』に曰く。「敦煌より西海(地中海)に至るには三路があり、その中路は高昌より……ペルシャに至り……」古代の高昌国の中心はトルファン
Author: 本誌記者 車慕奇 Year 1980 Issue 4 PDF HTML
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17. 吐魯番(トルフアン)盆地から塔里木(タリム)盆地へ
風の庫(くら)吐魯番(トルフアン)を離れて西へ向かう。ジープはオアシスを抜け、スピードメーターはたちまち一〇〇キロまで上った。「なんだってこんなに飛ばすんだい」とたずねると、「この先は風の入口だから、早く通り抜けないとね。もし大風にぶつかったら、こんなジープなんぞひっくりかえされちまうかも知れないんだから」と運転手が言う。かれの言うところでは、一九七七年、風力十二(秒速三二·六メートル)をこえる大
Author: 本誌記者 車慕奇 Year 1980 Issue 5 PDF HTML
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18. 博斯騰(バグラシ)湖から孔雀(コンチ)河へ
唐僧玄奘法師は『大唐西域記』の中で「高昌の旧居をはなれて、まず近きより始めんものと、阿耆尼国にむかう」と書いている。この「阿耆尼」とは、サンスクリットのAgniからきた呼称で、漢語の史籍にいう「焉耆」のことである。焉耆について、『前漢書』には「焉耆国は……海水に近く魚が多い」と記され、『後漢書』には「焉耆は……四方を大山に囲まれ、亀茲国に連なり、道が険阻で守りやすい。海水があり、四方の山の間に出入
Author: 本誌記者 車慕奇 Year 1980 Issue 6 PDF HTML
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19. 塔克拉瑪干(タクリマカン)砂漠周辺の旅
庫爾勒(コルラ)を離れて、西の方庫車(クチヤ)をめざす。天山南麓のなだらかな斜面に、平坦な幹線道路がまっすぐ伸びている。道の一方には天山山脈に連なるさして高からぬ山、もう一方には広大な平原がゆるやかに南に傾斜しつつ塔里木(タリム)河畔までつづいている。車はここから、川すじに沿った幹線道路を川の流れと逆にすすむ。西から東へと流れるタリム川の南がわは、もう塔克拉瑪干(タクリマカン)砂漠である。面積三二
Author: 本誌記者 車慕奇 Year 1980 Issue 7 PDF HTML
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20. 克孜爾(キズル)千仏洞から克孜勒(キズル)谷へ
庫車(クチヤ)県城を離れ、ふたたび「娘よ、とどまれ」とよばれる漢代の峰火台を通りすぎて、拝城(バイ)県への山道をたどる。めざすは克孜爾(キズル)千仏洞中国最西部の石窟寺キズル千仏洞はわが国最西部の大型仏教石窟で、敦煌よりもなお早い時期に作られており、仏教芸術東流の跡を熱心に探求している学者たちから、ことのほか重視されている。西へすすむ山道は、北上して大澇巴(ラオバ)へいった道よりもはるかに平坦で走
Author: 本誌記者 車慕奇 Year 1980 Issue 8 PDF HTML