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Your search : [ author:撮影 沈延太] Total 446 Search Results,Processed in 0.113 second(s)
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11. イスラム教徒の牛街 四合院にも独特のふんい気
天安門から西南へ約六キロ行ったところにある牛街(ニウジエ)は、北京で最大の回民(イスラム教徒)居住地だ。全長一キロ足らずのこの通りをはさんで、大小数十本の胡同がつらなっている。道幅がそう広くないので、よく茂ったエンジュの並木がすっぽり道路を覆い、清潔で整然とした趣。道を行く人々は白い礼拝帽をかぶったものが多く、雑踏の中にもやさしさと静けさが感じられる。ここには回民のための小学校、中学校がある。南口
Author: 沈延太 王長青 Year 1998 Issue 11 PDF HTML
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12. 老北京きっての歓楽街
前門から南下する前門大街を通り抜けて天壇公園の西側に出たところに、老北京でも指折りの歓楽街として栄えた天橋がある。天橋の名は、かつてそこにあった石橋から来ている。史料の記すところによると、この辺りは元から清代初期にかけて水と沼の多い土地で、「野の水は満ちあふれ、風に荻の花そよぐ」ありさまだったという。しかし元代には、すでに北京の文人墨客、官僚たちの行楽や保養の地となっていた。夏から秋にかけて画舫(
Author: 沈延太 王長青 Year 1998 Issue 12 PDF HTML
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13. 白塔寺に歴史の風雪 人波でにぎわう鳥の市、魚の市
一九八〇年代まで北京の西城区のあたりには、高層建築物はほとんどなかった。そのころ一番高い建物として人目を引いていたのが、阜成門内の白塔寺(正式には妙応寺という)の中にある白塔だった。全体を白く塗ったこの大きなチベット式仏塔(ラマ塔ともいう)は、今から約七百年前の元代初年に建立された。元の世祖フビライは建国後、当時の燕京、すなわち北京を冬の都とし、大都と名づけたが、白塔は数少ない当時の遺跡となってい
Author: 沈延太 王長青 Year 1999 Issue 1 PDF HTML
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14. 什刹海の飾らぬ美しさ
冬はいつも什刹海(シーチャーハイ)でスケートを楽しんだ。六〇年代の初め、私がまだ学生だったころの話だ。それから三十年以上たった今も、清明節過ぎに春景色を楽しみに行ったり、写生帳をかかえて晩秋のスケッチに行ったりするが、そのたびになにか言いようのない新たな感慨を覚える。七年前のある夏の日、娘が遠地に行くことになり、一家で什刹海に行ってハスの花咲く湖畔で記念写真を撮った。そのときの何枚かが今も書斎の壁
Author: 沈延太 王長青 Year 1999 Issue 2 PDF HTML
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15. 数世帯同居の「大雑院」も
什刹海(シーフャーハイ)の東、地安門外大街から北へ、よく生い茂った街路樹の道を行くと、二つの高い建造物に行きつく。手前が鼓楼、その次が鐘楼で、ふつう合わせて鐘鼓楼と呼ばれている。北京城を南北に貫く中軸線上の北端に位置し、元(一二七一~一三六八)の都「大都」ではここが中心であった。ともに七百年余の歴史を持つが、訪れる人はみな、その保存のよさに驚く。案内人の説明によると、鼓楼は元の至元九年(一二七二)
Author: 沈延太 王長青 Year 1999 Issue 3 PDF HTML
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16. 土一升金一升の王府井 横町にはなお老北京の香り
私の北京生活ももう四十年になるが、そのうち二十五年を王府井で暮らしている。王府井大街は北京でも屈指の繁華街で、その歴史は七百三十余年前の元の都「大都」までさかのぼる。北京と言えばすぐ連想されるのが王府井だ。商店が軒を並べ、人々は押し合いへし合いしながらこの街を歩く。王府井の南口から金魚胡同の西口までの八百メートルは、王府井の中でも最も王府井らしい通りであり、さらに北へ七百メートルほど行った隆福寺あ
Author: 沈延太 王長青 Year 1999 Issue 4 PDF HTML
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17. 造花と工房の花市大街 四百五十年前の城壁も出現
北京駅の少し南に花市大街という通りがあり、東西に一·五キロほど続いている。今から約二百年前、清の第六代皇帝·乾隆帝の時代にできたと言われる古い繁華街の一つで、花の市がたっていたところからこの名がついた。北京の年中行事を記した清代の書『燕京(えんけい)歳時記』によると、毎月四の日に開かれた花の市で紙や絹の造花が盛んに商いされ、「天下の絹花は北京より出で、北京の絹花は花市より出づ」と言われた、という。
Author: 沈延太 王長青 Year 1999 Issue 5 PDF HTML
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18. 四合院にそれぞれの余生
天安門の東、建国門内大街の北京駅口から北へ東四十条まで、一本の道路が伸びている。その南半分を朝陽門南小街、北半分を朝陽門北小街という。この付近には多くの胡同が連なり、みなそれぞれの古い歴史を持っている。例えば、今の史家胡同、本司胡同、灯草胡同、演楽胡同、遂安伯胡同、乾麺胡同などは、すべて明代の「黄華坊」の中にあった。坊というのは昔の都市の下級行政区画のことで、明代の北京は内城二十八坊、外城八坊に分
Author: 沈延太 王長青 Year 1999 Issue 6 PDF HTML
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19. 最高学府と宗教の聖地 国子監街から雍和宮大街へ
北京の内城の東北を固める安定門のすぐ南に、並みの胡同とは全く違う通りがある。国子監街という。国子監とは旧時の最高学府のことで、その所在地だったことからこの名がついた。国子監街の西は安定門内大街に、東は雍和宮街に接する。胡同としては長い方で、並木がよく茂り、静かで古風で質朴なたたずまい。牌楼(装飾などのために建てられた門)が四つもあり、この胡同が特別のものであることを表している。その東西両端の牌楼に
Author: 沈延太 王長青 Year 1999 Issue 7 PDF HTML
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20. 皇弟、芸人、書画家……護国寺近辺の思い出の人びと
この連載第八回(今年二月号)で紹介した恭王府のちょっと西に、護国寺という寺があり、その名をとった護国寺街という通りが東西に連なっている。京劇の名優·梅蘭芳の旧居があることで知られるが、私にとって懐かしく思われるのは、あの「ラスト·エンペラー」宣統帝溥儀の弟·愛新覚羅溥傑さんの住居がこの胡同の五十二号にあったからだ。一九八八年春のある日、私はその溥傑さん宅に取材でおじゃまし、いろいろお話をうかがった
Author: 沈延太 王長青 Year 1999 Issue 8 PDF HTML