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Your search : [ author:史 石] Total 397 Search Results,Processed in 0.104 second(s)
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131. 日中関係を一歩前進させたい
国民挙げて国事を慶祝する盛典に接し、誠に感慨深いものがある。民族が興り、国民が国運と政治の休戚に強い関心が集るとき、国民は国事に敏感となる。三年の苛烈な自然災害、ソ連との関係における人災をのりこえ、経済の好転を闘いとった国民の労働と指導者の英明は建国第十四周年の国慶をいやがうえにも祝賀する情緒を高めた。私は幸いこの盛典に参加する機会をえて、国政の機微にふれ、遙かにわが日本国の国政に想いを馳せた。一
Author: 石橋湛山 Year 1964 Issue 1 PDF HTML
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132. 雷鋒小学校の紅小兵
八年まえ、毛主席はみずから筆をとって「雷鋒同志に学ぼう」という題辞をかき、全国の広はんな労働者、農民、兵士と青少年に、雷鋒に学ぶようにという偉大なよびかけをおこなった。いま、プロレタリア文化大革命のなかで戦闘的洗礼をうけたわが国の青少年は、雷鋒のすぐれた品性を学び、毛沢東思想にはぐくまれてすくすくと成長をつづけている。九年まえ、毛主席のりっぱな戦士雷鋒は撫順製鋼所内のある小学校(いまの雷鋒小学校)
Author: 傅石山 Year 1971 Issue 10 PDF HTML
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133. たたかいの筆をとる
魯迅は、日本の読者によく知られている。かれは若いころ日本に留学した。一九〇九年に帰国してからは、長期にわたって創作と革命活動に従事し、中国革命と新文化運動にすぐれた貢献をした。 毛主席は、魯迅にたいしてつぎのような高い評価をあたえている。
Author: 石一歌 Year 1972 Issue 9 PDF HTML
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134. 共産党員から最も信頼された人物
一九三五年夏のある日、江西省からきたという若い女性が魯迅の家にたずねてきた。たまたま魯迅は不在だった。その若い女性は紙で包んだ書類をさし出してから、魯迅の宅を辞した。それからしばらくして魯迅が帰宅した。家の者はすぐそのことをかれに告げた。「江西省から訪ねてきたのかね」といいながら魯迅は急いでその包みをうけとり、机の上において注意深くそれをひらいた。なかには筆でしたためられた原稿が入っていた。最初の
Author: 石一歌 Year 1972 Issue 11 PDF HTML
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135. 延安に心をはせる
一九三五年の末、魯迅はある人と話をしているさいに、人心をふるいたたせるニュースを耳にした。それは長征途上にあった労農赤軍が陝西省北部に無事到着したというのであった。その夜、魯迅は興奮のあまり書斎のなかをあるきまわっていた。ドアをそっとあけて、夫人の許広平が夕刊をもってきた。魯迅はそれを手にとった。国民党反動派の代弁者はまたしても赤軍が「消滅」されたとか、かれらがどのようにしてまた「勝利」をおさめた
Author: 石一歌 Year 1972 Issue 12 PDF HTML
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136. 初めて広州に到る
一九二七年一月、魯迅は広州の中山大学からの招きにこたえ、廈門から広州に移った。そのころの広州は、大革命の発祥地であり、国共合作の統一戦線はまだ公然と決裂するにはいたっていなかった。しかし、革命陣営内部での闘争は先鋭化の一途をたどっていた。蔣介石をかしらとする国民党右派は、反革命のクーデターをおこす準備を着々とすすめていた。そうした革命勢力と反動勢力との闘争は、魯迅にたいする歓迎という面にもみられた
Author: 石一歌 Year 1973 Issue 1 PDF HTML
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137. 辛亥革命のあらしの中で
一九〇九年の夏、魯迅は日本から帰国し、杭州の浙江両級師範学堂で教鞭をとった。その翌年には故郷に帰り、紹興府中学堂の学監(教務主任)兼博物、生理衛生の教師となった。魯迅が故郷をあとにしてだいぶたっていたが、そこはすこしもかわっていなかった。そこはいぜんとおなじく、愚昧で立ちおくれたところだった。清朝の支配下にあって、広はんな勤労者は死線をさまよい、牛馬にもおとる生活をおくっていた。そうした国家の危機
Author: 石一歌 Year 1973 Issue 2 PDF HTML
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138. 春雷
いまから六十年前、北京の宣武門外南半戴横町の北のはずれに、紹興県館という建物があった。そのなかの東向きの家を「補樹書屋」といった。そこは、当時南京から北京にきた魯迅の住居であった。一九一二年五月、臨時政府が北京に移転したため、魯迅も教育部とともに北上した。そのころの臨時政府は、誕生したばかりだというのに生気を失っていた。ブルジョア階級は手をこまねいて政権を封建勢力にひきわたしたのだ。国をかすめとっ
Author: 石一歌 Year 1973 Issue 3 PDF HTML
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139. 清 陳卓「榴花嬰戯図」
〈中心見ひらきページ参照〉絹本、彩色画、縦一八三·五センチ、横九六·四センチ。はなやかな装いの貴婦人が、四、五歳の子供四人をつれて自宅の庭で遊んでいる。金蒔絵の卓と籐製の墩が配され、卓上には桃を盛った赤い漆器と小皿。庭の一角が描かれているだけだが、これだけで富貴の家の庭園と分かる。満開の石榴の木もある。「五月榴花照眼明、枝間時見子初成」、鮮やかに照り映えるざくろの花、中には小さな実の形になったもの
Author: (石雨春) Year 1981 Issue 7 PDF HTML
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140. 北京篇冬の味覚「烤肉宛」の焼肉
一九五四年の冬、わたしは仕事のため初めて北京に来た。「老北京」を自称する二人の同僚が、歓迎会を開いてくれるという。喜んで一も二もなく応じた。どこでご馳走してくれるのかしらと思ったら、ご両人はためらうことなく、北京城内宣武門近くの「烤肉宛」を選んだ。木綿の防寒用のれんをくぐって、店内に一歩足をふみいれると、おいしそうな焼き肉の匂いが鼻をついた。あたりを見回すと、お客は座って食べるのではなく、大きな酒
Author: 石一客 Year 1986 Issue 1 PDF HTML