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Your search : [ author:史 石] Total 397 Search Results,Processed in 0.096 second(s)
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1. 「元謀人」―中華民族の祖先
北京人から元謀人へ中国の歴史はどこから書き始めたらよいのか。それは、中国の歴史を専攻する古今東西の学者が直面する第一の課題であった。「漢代の大歴史家―司馬遷は、その著『史記』の冒頭に、伝説の五帝本紀をおいた。いらい二千余年、多くの史家はそれにならい、中華民族は黄帝の子孫であるということから説きおこしてきたのである。一九二九年、北京市郊外の周口店にある龍骨山で猿人の頭蓋骨の化石が発見され、「中国原人
Author: 史石 Year 1977 Issue 6 PDF HTML
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2. 漢族の前身―華夏族
中国は五十あまりの民族からなる多民族国家で、八億の人口を擁している。その中、漢族がおよそ九四%を占めている。漢族という名が起こったのは、二千年以上前、中国に漢王朝が成立してからであるが、漢族自身が中国大陸にあらわれたのは何も漢の時代からというわけではない。漢族の前身は、はるか昔の古代のころから、ながい年月にわたって、しだいに形成されていったのである。それは華夏族と呼ばれている。華夏族のおこり大体新
Author: 史石 Year 1978 Issue 4 PDF HTML
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3. 原始社会
北京原人と元謀原人中国の歴史の起源一九二一年から二三年にかけて、北京から西南へ四五キロの周口店で、多くの考古学者たちがかなり大きな石灰焼き場で洞窟を発掘した。かれらはいくつかの石器とすでに化石となった人間の歯を三個掘り出した。数年後にまた、外の人が発掘にやってきて、いくつかの人骨化石、さらには数千点に及ぶ石器と堆積した灰などを発見した。科学者たちは宝物を手に入れたように、この上もなく喜んだ。それは
Author: 史石 Year 1979 Issue 1 PDF HTML
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4. 文明時代のはじまり
「文明の祖」―黄帝新制度誕生の陣痛伝説では、およそ五、六千年前の中国の大地には、北方に狄族が、西方に羌族が、南方に苗族が、東方に夷族などが、それぞれ住みついていて、すでに活況を呈していたという。東方夷族に蚩尤という有名な首領がいた。けもののような体つきだが、人間の言葉を話し、砂や石を食べ、金で作った武器をもち、さらに霧を発生させることもできるので、戦いとなれば、かなり手強い相手となる人物である。黄
Author: 史石 Year 1979 Issue 2 PDF HTML
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5. 商王朝の盛衰
夏王朝を滅ぼした成湯革命商王朝の勃興四〇〇〇年余りの昔、ちょうど夏王朝が黄河の中流一帯で発展しつつあった頃、東方では強大な部族である「商」(殷)が勃興したと伝えられている。「商」の先祖である契は、かつて禹の治水工事に協力して、目覚ましい功績を立てたことにより、商地方の統治をまかされた。伝説では、契の母親である簡狄は燕の卵を呑んで懐妊し、契を生んだと言われる。卵より生まれたといった伝説は東方の少数民
Author: 史石 Year 1979 Issue 3 PDF HTML
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6. 周王期の興亡
周王朝発祥の地―周原始祖は後稷周原は陝西省を流れる渭水以北の黄土高原にある。その平原は岐山のふもとに広がり、現在の扶風と岐山と鳳翔の三つの県にまたがっている。三、四千年の昔、ここは周王朝発祥の地であった。伝説によると、周王朝は「禅譲」時代の農業をつかさどっていた長官の後稷(こうしよく)(名は棄)の子孫であり、十三代目の古公亶父(たんぼ)(太王)の時になって、今の陝西省の中部にあった周原に移って定住
Author: 史石 Year 1979 Issue 4 PDF HTML
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7. 「河光石」の銘が解いた謎
このところ、中国の考古学、歴史学界に大きな波紋をまきおこしている一個の石がある。もしその上に刻みこまれた文字がなければ、高さ九〇センチ、幅五〇センチ、厚さ四〇センチの平凡な石塊にすぎない。だが、その二行十九字の文字のために、場合によっては春秋戦国史の書きかえをせまるほどの威力を発揮しているのである。それは、中山国の王陵の「守坵河光刻石」(写真)と呼ばれる石碑で、昨年、河北省平山県三汲人民公社の南七
Author: 史石 Year 1979 Issue 9 PDF HTML
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8. 秦の滅亡と漢の興隆
燃えさかる反乱の炎中国の歴史は四千年の長きにおよび、その間の記録は山ほどあるが、そのほとんどは王侯、将軍、宰相の功績をたたえ、伝記を記したもので、社会の中心をなす奴隷、農民のことや、歴史の前進をうながしてきた農民蜂起のことは、昔の歴史家によって抹殺されてきた。ただ中国史上最初の農民大蜂起だけは、例外的に、生きいきと、しかも克明に書き記されている。これは西漢(前漢)の大歴史家·司馬遷の手柄で、彼の大
Author: 史石 Year 1979 Issue 11 PDF HTML
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9. 漢王朝400年の盛衰(上)
大地にもどった農民―漢代初期の経済政策紀元前二〇六年、秦王の子嬰は漢王の劉邦に降伏し、この時から四百年余り続いた漢代の歴史が始まった。前半の二百年余りは西漢(日本では前漢)といい、後半の二百年近くは東漢(日本では後漢)とよばれている。前者の都が西の長安におかれ、後者の都が東の洛陽におかれたからである。西漢の初め、四年にわたる楚と漢との戦争があったが、最後には西方にあった楚の覇王項羽が烏江で自らの首
Author: 史石 Year 1979 Issue 12 PDF HTML
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10. 漢王朝400年的盛衰(中)
西漢後期の皇帝たち―激化する社会的危機西漢中期における武帝の帝国統一によって漢代の繁栄はその絶頂に達した。しかし、封建経済は土地の私有制度を基礎としていたので、農民と地主との間には土地問題をめぐって必然的に矛盾が生じ、闘争がくり広げられることになった。西漢は最初の一五〇年間に統一された強大な漢帝国を築き上げたが、後の五〇年間には、またもや急速に衰えていった。その盛衰の根本的原因はやはり土地問題にあ
Author: 史石 Year 1980 Issue 1 PDF HTML