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Your search : [ author:安金槐 史石] Total 112 Search Results,Processed in 0.085 second(s)
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71. 後漢·陶説唱俑
カラーグラビア参照四川省博物館に、立ち姿の説唱俑が蔵(しま)われている。手に鼓を抱き、腕に何かをつけ、首をかしげ、肩をそびやかし、ペロリと舌を出して、滑稽味がよく出ている。はじめてこの陶俑をみたとき、どうしてだか、わたしは四十年前に見かけた一人の乞食芸人のことを、ふと思いだした。その芸人はボロ寺に寝泊りし、芸名もなく、氏素姓もわからなかった。毎日、かれは銅の鈴と赤い布きれを結びつけた二本の牛の肩胛
Author: 史石 Year 1985 Issue 4 PDF HTML
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72. 戦国·夾砂紅陶虎
カラーグラビア参照この勇気りんりん、天真らんまんな虎は、四川省博物館所蔵の陶虎である。肥満短足、わに口の大頭、背中のしましまくっきりと。その誇張的な造形は、現在も愛好されている伝統玩具の、ぬいぐるみの虎に似ている。この陶製の虎は長さ一六·三センチ、高さ七·四センチで、いまから三十年前に、成都市の道教寺院青羊宮の近くにある戦国時代の沖積層から発見されたものだが、これがどういうものなのか、何に使われた
Author: 史石 Year 1985 Issue 6 PDF HTML
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73. 北魏·釉陶鎮墓神獣
カラーグラビア参照北京の天安門の前に、巨大で勇猛な石彫の獅子像がある。それは重厚な石柱と相まって、宏壮な城閣を映し出し、調和のとれた荘厳な印象を与える。その城閣と雲、竜の浮き彫りがある石柱は、紛れもなく伝統的な中国文化の一つであるが、獅子をモデルにした石獣は、果たして中国独自のものか。実は、この獅子像は古代ギリシアのミケーネ文明に由来するものである。先秦から西漢までの天禄辟邪(てんろくへきじや)(
Author: 史石 Year 1985 Issue 8 PDF HTML
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74. 唐代·三彩牽馬俑
カラーグラビア参照シルクロードの開通とともに中原と域外の文化交流は日増しに盛んとなり、西域文化が広まっていった。その中、草木の品種は枚挙にいとまのないほど伝わったが、どんな物がいつ頃伝播したのか、詳細は定かではない。古代農業研究家の石声漢は、こんな分析を加えている。“洋”の字をもつ洋葱(タマネギ)、洋薑(ショウガ)は清代、“番”をもつ番茄(トマト)、番椒(唐辛し)は南宋から元、明代にかけて異民族船
Author: 史石 Year 1985 Issue 12 PDF HTML
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75. 三国時代の漆塗りの下駄
いまの世界で「下駄の国」と呼ぶことのできるのは、恐らく日本ぐらいであろう。とくに和服を身につけ、下駄をはいて小刻みに歩く女性の姿はしとやかで気品があり、しかも慎ましやかで、すこぶる風韻に富む。京都、奈良など古都を観光した折、その姿にうっとりさせられることしばしばだった。軽やかにはずむ下駄の音は一種の美の享受、古典芸術を賞翫しているかのようであった。一人の男として、こんなにも異国の女性を凝視するのは
Author: 史石 Year 1986 Issue 12 PDF HTML
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76. 四川省に三千数百年前の青銅器文化があった
「蜀」といえば現在の四川省にあたり、読者には『三国志』の蜀、つまり劉備や孔明のことがピンとくるだろう。それは三世紀はじめのことである。ところが、それよりもはるかに古く、いまから三千数百年前のこの地方で、中原に劣らない青銅器文化をもつ「古蜀王国」が栄えていたことが明らかとなった。劉備、孔明、関羽たちも知らずに、地下に埋没した宝物の上を往来していたことになる。孔明も知らずにその上を四川省の省都である成
Author: 史石 Year 1988 Issue 2 PDF HTML
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77. 黄河の水は 江戸に通じる
いまから一万年ないし二万年を逆のぼる大昔に、黄海をへだてて中国大陸と日本列島に住んでいた古代の人びとがどのように文化交流の道を開拓したかについて探ってみたいと思う。これは前人未到の領域ともいえる。これについては、文字の記載こそないが、確かな証拠はある。それをどのように裏付けていくかは、中日両国学界の今後の研究に待たねばならない。石器時代の宿営地近年、中国の考古学研究者は、桑乾河のほとりの、東径一一
Author: 蓋培 史石 Year 1977 Issue 10 PDF HTML
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78. 殷墟から新しく出土した玉器
本号では、殷墟の王室の墓から出土した玉器をカラーグラフで紹介した。殷墟というのは、かつて殷·商の王朝が二百七十三年にわたって都をおいた遺跡のことで、げんざいの河南省安陽市の西郊外にある小屯村の一帯をさしていう。昨年の春、その殷墟で王室の墓が発掘されたさい、盛り土のなかと棺をおさめてある槨(かく)の上部で、玉製の臼や玉簋(ぎよくつき)が見つかった。そして、さらに発掘をすすめるうちに棺の中から大量の玉
Author: 蕭璞 史石 Year 1977 Issue 11 PDF HTML
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79. 戦国の争い(上)
二百五十年の時の流れ戦国七雄の興亡春秋時代から戦国時代(紀元前四七五~同二二一年)に入ると、中国の歴史地図の上には斉、楚、燕、趙、韓、魏、秦の七つの大国が書き込まれた。それは歴史上、「戦国の七雄」と呼ばれている。この七雄の領地にはさまれて、周のほかに、魯、宋、中山など十数の小国があった。周の国とはつまり周王がいた所である。周王は、春秋時代にはすでにカイライ政権になってはいたが、統一された奴隷制国家
Author: 福元 史石 Year 1979 Issue 6 PDF HTML
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80. 戦国の争い(下)
馬陵の戦い魏の盛衰戦国時代には、斉、楚、燕、趙、韓、魏、秦の七雄が共存して覇を争っていたと言われているが、その時代の流れを左右する勢力をもち、そしてあい前後して覇者の座についたのは、主として魏、斉、秦の三国であった。そのなかでも、他に先がけてこれまでの法秩序を変革したのが魏であり、他国よりも早く強大な国になったのも魏であった。魏の国は紀元前五世紀の中頃からはじまり、およそ百年前後の間にしだいに強大
Author: 福元 史石 Year 1979 Issue 7 PDF HTML