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Your search : [ author:文とえ 龔学孺] Total 50 Search Results,Processed in 0.110 second(s)
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41. 官渡の古戦場に立つ(上)
曹操がわずか二万の軍勢で、袁紹の十万の大軍を破った「官渡の戦い」の話は、およそ『三国志』を読んだことのある人なら、きっとよく覚えているだろう。これは、寡をもって衆にあたり勝利をおさめた歴史にのこる戦いだが、羅貫中の筆になる物語の『三国志演義』の中でも、重要な一段になっている。この冬、官渡の古戦場をたずねた。かつて袁紹が軍を進めた路線に沿って、河南省の浚県(黎陽)から出発することにした。袁紹と曹操一
Author: 本誌·龔学孺 Year 1991 Issue 5 PDF HTML
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42. 孔明 初手柄の博望坡
三国時代は、英雄豪傑が綺羅(きら)星のごとく輩出したが、なかでも、最も魅力があり、最も尊敬されているのは「蓋世(がいせい)の奇才」といわれる諸葛亮孔明(一八一~二三四)をおいてほかにない。諸葛亮孔明が、隠れ家を出て劉備(一六一~二二三)を補佐し魚水(ぎよすい)の交を結んだことによって、蜀の国の命運が決定し、そこから「天下三分」の歴史的シーンが展開するからだ。水鏡先生の推賢孔明の事跡は『三国志』にも
Author: 本誌·龔学孺 Year 1991 Issue 9 PDF HTML
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43. 赤壁古戦場はどこか
いよいよ赤壁(せきへき)だ。官渡(かんと)の戦い、夷陵(いりよう)の戦いとならんで、三国の三大戦役の一つである赤壁の戦いは、弱いほうが強いほうに勝った例として有名な大戦で、史書にはもとよりだが文学作品に描かれた曲折に富む雄壮な場面は、いまなお感動的だ。三国の赤壁はどこに紀元二〇八年、曹操(そうそう)は二十余万の大軍を率いて江陵(こうりよう)(湖北省)から長江ぞいに東へ下り、呉(ご)に進攻して一挙に
Author: 本誌·龔学孺 Year 1991 Issue 12 PDF HTML
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44. 成都の劉備陵と武侯祠
白帝城の西側にある奉節(ほうせつ)から、船で長江を西へ、万県へ出て、梁平空港から、定期便に乗り、小一時間で「天府(てんぷ)の国」四川省の省都、成都市へ到着した。四川省は三国時代の蜀漢(しよくかん)の地。当時の都だった成都を中心に、北路、南路、東路の一帯に七十あまりの遺跡が現存している。北路は、成都から徳陽、綿陽、広元を経て陝西省への道。南路は、成都から涼山彝(い)族自治州を経て雲南省への道。東路は
Author: 本誌·龔学孺 Year 1993 Issue 2 PDF HTML
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45. 秋風悲し五丈原
紀元二三四年の春、孔明は十万の大軍を率いて漢中を出発し、褒斜(ほうしや)道(後出。漢中の褒城から関中の斜谷(やこく)に抜ける古桟道)を通って秦嶺(しんれい)山脈を越え、関中平原に進出した。宿敵魏を討つための五度目の北伐である。四月、蜀軍は渭(い)河南岸の五丈原(陝西省岐(き)山県の県境)に到着して、陣を張った。これに対して魏の大都督司馬懿(しばい)は三十万の軍勢を擁して、渭河の北岸に防衛線を布く。
Author: 本誌·龔学孺 Year 1993 Issue 6 PDF HTML
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46. 定軍山から褒斜道へ
紀元二三四年、諸葛亮孔明は五丈原の軍営で没し、遺命によってそのなきがらは漢中の定軍山のふもとに葬られた。れっきとした蜀の丞相が、なぜ都の成都でなく、都を遠く離れた漢中に葬られたのか。そこには今どんな遺跡があるのだろうか。武侯墓参拝陝西(せんせい)省漢中の勉県県城から南に行って、漢江大橋を渡り、さらに一時間あまり歩くと、定軍山のふもと、松の大木がそびえる武侯坪(ぶこうへい)に着く。孔明の墓がある所だ
Author: 本誌·龔学孺 Year 1993 Issue 7 PDF HTML
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47. 蜀興亡の地 四川北部
今日の四川省の綿陽、徳陽、広元の三市が所轄する広袤(こうぼう)地区は、地理的に唇歯輔車(しんしほしや)の関係にあり、三国時代にはどこも蜀北部地区の防壁として戦略上重要な役割を果たしていた。劉備は二一一年益州にはいって、のちこれを奪い、帝位にのぼって蜀を建国する二二一年まで、葭萌(かぼう)や涪(ふ)城にいてその基礎固めをしていたし、二六三年に蜀が滅びたとき、国璽を捧持して成都を出た劉禅は、綿竹で魏の
Author: 本誌·龔学孺 Year 1993 Issue 9 PDF HTML
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48. 漢方医学のルーツをたずねて
名医と豪傑の物語『三国志演義』という中国の古典小説を読まれた方は、華佗(かだ)という名医が、毒矢を受けた関羽(かんう)の骨を削って治療したという話をご存知であろう。関羽、つまり関雲長は魏·蜀·呉の鼎立した三国時代(二二〇~二六五年)、蜀の武将として活やくした人物で、中国では古来、人気のある豪傑だ。当時、長江中流に位する湖北地方の荊州、襄陽、樊城一帯は、魏·蜀·呉の三国が競いあった戦略的要地だった。
Author: 龔学孺 李経緯 Year 1979 Issue 11 PDF HTML
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49. 解明すすむ 明の祖陵 石彫群
江蘇省にある中国五大淡水湖の一つ洪沢湖、その西岸にこの明の祖陵がある。「明代天下第一陵」といわれる大規模なもので、明の初代皇帝朱元璋(しよう)が、祖父朱初一のために、洪武元年(一三六八)かその少しあとに造営を始めた陵墓だ。清の康煕十九年(一六八〇)の大洪水で洪沢湖の水底に埋没し、三百年らい、中国のポンペイとして、なぞに包まれたままになっていた。再び湖底の陵墓が姿を現わしはじめたのは一九六六年になっ
Author: 写真 翁乃強 文 龔学孺 Year 1991 Issue 11 PDF HTML
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50. 蘇州 庭園の見どころ
中国一の園林都市―蘇州に来ても、古代庭園を見なければ、蘇州に来たことにならないといわれます。また、江南の園林は天下に冠たり、蘇州の園林は江南に冠たりという言葉もあって、中国文化を愛する人たちは、一度は蘇州の古代庭園に遊びたい念願を持っているわけです。しかし、はじめて蘇州に来た人は、どこから見ようかと目移りしてしまいます。いったい、どの位の数があるのでしょう。「統計によりますと、大小合わせて七十を超
Author: 聞き手 龔学孺 本誌編集部 Year 1986 Issue 10 PDF HTML