今日の四川省の綿陽、徳陽、広元の三市が所轄する広袤(こうぼう)地区は、地理的に唇歯輔車(しんしほしや)の関係にあり、三国時代にはどこも蜀北部地区の防壁として戦略上重要な役割を果たしていた。劉備は二一一年益州にはいって、のちこれを奪い、帝位にのぼって蜀を建国する二二一年まで、葭萌(かぼう)や涪(ふ)城にいてその基礎固めをしていたし、二六三年に蜀が滅びたとき、国璽を捧持して成都を出た劉禅は、綿竹で魏の...
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今日の四川省の綿陽、徳陽、広元の三市が所轄する広袤(こうぼう)地区は、地理的に唇歯輔車(しんしほしや)の関係にあり、三国時代にはどこも蜀北部地区の防壁として戦略上重要な役割を果たしていた。劉備は二一一年益州にはいって、のちこれを奪い、帝位にのぼって蜀を建国する二二一年まで、葭萌(かぼう)や涪(ふ)城にいてその基礎固めをしていたし、二六三年に蜀が滅びたとき、国璽を捧持して成都を出た劉禅は、綿竹で魏の...