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Your search : [ author:■文と写真 村山孚] Total 53 Search Results,Processed in 0.077 second(s)
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41. 呼称「小姐(シャオジエ)」の復活
呼称―ひとの呼び方―は、その民族の社会生活や意識を知るためひとつの手がかりになる。わたしたちは無意識のうちに使っているが、日本語の呼称は、世界でもっとも複雑なのではあるまいか。相手に呼びかけるのに、「あなた」「おたく」「きみ」「おまえ」「おまえさん」などなど、さらにはまた、「あなた」といっては失礼で、うっかり使うと相手が気分をこわす場合もある。自分のことをいうにも、「わたし」「わたくし」「自分」「
Author: 村山孚 Year 1989 Issue 2 PDF HTML
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42. ご飯食べた?
「你吃飯了么(ニーチーフアンラマ)?」(ご飯食べた?)この挨拶ことばについて、むかし「中国通」からよくこんな説明を聞いたものだ。―中国は貧しく、飯にありつくというのは大変なことなのだ。だから、顔を会わせるとこう聞くのである、と。この「貧困由来説」は今日もかなり信じられていて、こんなおかしな説明をする人もいる。―いまは基本的にみんなが食えるようになったから、このことばも死語になって、まれに使われるだ
Author: 村山孚 Year 1989 Issue 3 PDF HTML
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43. 宴会小議
わたしたち日本人も近ごろはだいぶ社交性が出てきたが、中国人には遠く及ばない。やはり、年期の入れ方がまるで違うのだ。なにしろ、こちらがまだ縄文人だったころ、あちらは「朋あり遠方より来る、亦楽しからずや」(論語)などと交遊を楽しむ一方、「富貴なれば(集まってくる)士多く、貧賤なれば(訪ねてくる)友すくなきは事の固然なり」(史記)などという醒めた見方もしていたのである。社交性については、中国と日本とでは
Author: 村山孚 Year 1989 Issue 4 PDF HTML
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44. 対外開放の玄関
日本の高度成長が始まったころと記憶しているが、よくこんなことを耳にしたものだ。―日本の世相が二、三年後にどうなっているか知ろうと思ったら、いまのアメリカを見ればいい。この見方の当否は別として、いまの中国では、こういうことが言えるであろう。―北京の世相がこれからどうなるか知ろうと思ったら、いまの広州を参考にすればいい。たしかに、良いことも悪いこともふくめて、広州や深圳はいまや中国の水先案内の役割を果
Author: 村山孚 Year 1989 Issue 5 PDF HTML
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45. 中国人の「腹の立て方」
中国語の「生气(気)」は腹をたてるということである。ほかにも日本語の「生気はつらつ」などと同様、生き生きした精神作用の意味もある。いずれにしても、「生気」とは「生」つまり加工しないナマの気ということで、飾りを取った人間本来の気性をさす。「怒り」にもなれば「精神的エネルギー」にもなるわけだ。人間、怒ったときには、心の衣装を脱いでしまう。だから「怒り方」を見ると、その人の性格なり願望なりがわかることが
Author: 村山孚 Year 1989 Issue 8 PDF HTML
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46. 二十世紀をこう歩いてきた(上)
お互いさまだが、よその国を理解するのはむずかしいことだ。中国のこんどの騒ぎについても、いろいろな見方があるが、いずれにしてもそれは、中国には中国独自の長く曲折した道があるということ、近代化というものが大きな痛みを伴わざるを得ないことなどを、改めて教えてくれた。隣人としては、中国が改革と開放の一貫した方針によって、着実に(「一日も早く」というお世辞は言わないことにする。急ぎすぎると失敗する)近代化を
Author: 村山孚 Year 1989 Issue 10 PDF HTML
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47. 二十世紀をこう歩いてきた(下)
一九四九年(昭和二十四年)の東アジアは騒然としていた。日本では、敗戦後の激しいインフレが収束しはじめ食糧も出回りだしたが、東西対立を反映して国内の左右対立が激化し、夏には、国鉄総裁が轢死体で発見された下山事件をはじめとし、三鷹事件、松川事件……と占領下の奇怪な事件があいついだ。この年、中国では、解放軍が怒濤のように南下して国民党軍を追い落とし、十月一日、毛沢東主席は天安門楼上から中華人民共和国の成
Author: 村山孚 Year 1989 Issue 12 PDF HTML
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48. どう見る認識のズレ
お断りしておきますが、わたしはいま、この原稿を日本で書いています。「本誌顧問」などという仰々しい肩書きが記されているため、しばらくぶりで顔を合わせた友人などからは「オヤ、北京にいってるんじゃなかったの?」なんていわれます。たしかに居所不定というか、考えてみると、この十年のあいだに中国にいたのが通算五年、行ったり来たりで両国在住が相半ばしたことになります。そのコウモリ暮らしのなかで否応なしに感じさせ
Author: 村山孚 Year 1990 Issue 8 PDF HTML
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49. 嵐を踏みこえてきた人びと
「待業青年」奮戦記新しい時代は新しい人材を必要とし、それを育(はぐく)む。哈爾浜(ハルピン)で、私はある青年へのインタビューを事前に希望しておいた。李傑君(リージエ)、二十歳。高校を出てまだ三年だが、「待業青年」の仲間を組織して電気毛布の製造工場をはじめ、軌道にのせているという。この青年のことは、半年ほどまえ北京で読んだローカル紙で知った。その記事は「“小不点(シヤオブデイエン)”厂長(チヤンジヤ
Author: 村山孚 Year 1985 Issue 10 PDF HTML
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50. 古代中国を掘る
新中国誕生いらい三分の一世紀がたちましたが、この間に挙げられた考古学上の成果は、内外の関心を集めています。そこで本誌は、「古代中国を掘る」と題して、三月号から連載でご紹介することになりました。筆者は、昨年まで本誌の編集委員を担当し、「北京新歳時記」を連載してご好評を博しました村山孚氏。中国古代史に造詣のある中国研究家の同氏に中国各地の発掘遺跡を取材していただき、軽やかなペンタッチで最新の考古学上の
Author: 文·写真村山孚 Year 1982 Issue 2 PDF HTML