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Your search : [ author:駒田信二] Total 27 Search Results,Processed in 0.078 second(s)
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21. 私のシルクロード⑩
九月十九日も、私たちは、前日にひきつづいてウルムチ市内を歩きまわった。先(ま)ず絨緞工場を見学したが、すべて手工業で、たとえば三百六十本の糸を使う場合だと一日八時間労働で一カ月に織れるのは一·五平方メートル、七百二十本の糸だと一カ月に〇·三平方メートルしか織れないとのこと。妻のアルバムには、〈一本一本、結んでは切り、結んでは切り、たいへんな仕事です。働いているのは若いお嬢さんたちですが、黙々と仕事
Author: 駒田信二 Year 1989 Issue 1 PDF HTML
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22. 私のシルクロード<11>
九月二十一日、午前九時、私たちはトルファン賓館を出て、マイクロバスで、ベゼクリク千仏洞へ向った。ベゼクリク千仏洞は、トルファン市の東北約五十キロのところにあるという。はじめのうち、ゴビの中を走っていたバスは、いつのまにか火焰山の中にはいっていた。バスの中の私たちは、新疆文化庁の趙さんと運転手の張さんとのほかは、みな、ウイグル族の上衣を着ていた。北京からずっと同行してくれている許さんも、康さんもであ
Author: 駒田信二 Year 1989 Issue 2 PDF HTML
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23. 私のシルクロード(12)
ベゼクリク千仏洞の「ベゼクリク」とは、「絵で飾った場所」あるいは「美しく飾った場所」という意味のウイグル語だという。現在ここには五十七の洞窟が整理され、管理保存されているが、かつてはもっと数多くの洞窟がうがたれており、その内部は仏像や壁画で美しく飾られていたはずである。だがそれらは崩壊してしまって、今は跡かたもない。火焰山中腹のここに幾つもの洞窟がうがたれ、仏像が飾られたり壁画が描かれたりした時期
Author: 駒田信二 Year 1989 Issue 3 PDF HTML
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24. 天池―新疆昌吉回族自治州阜康県
アスターナ古墳から、私たちはまたマイクロバスで、宿舎の吐魯番賓館にもどった。運転手の張さんは、高昌故城へ行ったときから、すでに天候を気にしていたが、アスターナ古墳では、しきりに、「××にならなければよいが……」とつぶやいていた。私にはその「××」が聞きとれなかったが、後(のち)、それが「土雨」であることがわかった。ベゼクリク千仏洞へ行ったとき、上空に見た燻(いぶ)し銀の大きな盆のような「銀陽」が、
Author: 駒田信二 Year 1989 Issue 4 PDF HTML
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25. 私のシルクロード(14)
天池の大自然の中で、半日をゆっくりすごしたあと、私たちはウルムチ市に帰り、西北路にある新疆ウイグル自治区博物館にはいった。はいって右側は「民族館」で、この自治区に住むさまざまな民族の歴史、文化、習俗などが、民族別にそれぞれわかりやすく展示されてあり、左側は考古館であった。その考古館の方には、千数百年から四千年も以前の男や女や子供たちが、千数百年も四千年も前に永眠したときの姿のままで、今もなお眠りつ
Author: 駒田信二 Year 1989 Issue 5 PDF HTML
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26. 私のシルクロード(15)
九月二十三日午前九時二十三分、私たちはウルムチの崑崙賓館の屋上で、完全な金環蝕を見た。月と太陽とが少しずつ重なってゆき、やがて黒い月の周りに太陽の光が金色の環(わ)になって見えるまで、私たちは眺めつづけていたのだった。その金の環が出来たのが九時二十三分だったのである。その金環蝕のことはあらためて次回に書くとして、今回は、この日、白楊溝の菊花台で見たカザフ族のユルト(氈房。モンゴル族の包(パオ)とほ
Author: 駒田信二 Year 1989 Issue 6 PDF HTML
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27. 私のシルクロード(17)
金環蝕を見た翌日の九月二十四日、私たちは、六日間お世話になった崑崙賓館を辞して、七時三十分、ウルムチ空港に向った。「お世話になった」という言葉を使ったのは、六日間もいるとホテルの従業員たちとも顔なじみになり、日がたつにつれて、かかわりのある従業員たちが旧知のように思われてくる、親しい人に思われてくる、そういう気持ちからである。上海へ向う飛行機がウルムチ空港をたつのは九時三十五分とのこと。私たちがウ
Author: 駒田信二 Year 1989 Issue 8 PDF HTML