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Your search : [ author:駒田信二] Total 27 Search Results,Processed in 0.092 second(s)
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1. 関陵、玉泉寺その他―湖北省当陽県
関陵へ行ったのは、晩夏の雨の日であった。陵墓はさほど大きくない。高さ七メートル、周囲七十メートルあまりの塚である。墓前に、塚の大きさにふさわしい碑亭が建っていて、碑には「漢寿亭侯墓」と刻まれていた。私は傘をたたんで、その碑亭の前に立った。『三国志演義』の第一回に書かれている関羽の風貌がうかんでくる。〈身の長(たけ)九尺、髯(ほほひげ)の長さ二尺。面(かお)は重棗(ちょうそう)の如く、唇は脂(べに)
Author: 駒田信二 Year 1987 Issue 1 PDF HTML
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2. 「水滸」の旅 その一―山東省曲阜
「水滸」の旅、という名の旅行団の一員として、山東省と河南省との幾つかの古跡を、いわば駆け足でまわり歩いたことがある。一九八〇年夏のことなので、もはや旧聞に属するが、見たままを記しておきたい。現在は形を変えているところもあるけれども、これも「歴史」の移ろいの一部分として、そのときの形を書きとめておくことも無意味ではなかろうと思うので―。北宋(九六〇~一一二七)の徽宗(きそう)の宣和(せんな)年間(一
Author: 駒田信二 Year 1987 Issue 2 PDF HTML
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3. 「水滸」の旅その二―山東省梁山県
梁山は、京滬(けいこ)緑の袞州(えんしゆ)駅から、曲阜(きよくふ)へ行くのとは反対側の西北方へ、バスで二時間ほどのところにある。現行の日本の「漢和辞典」や「国語辞典」には「梁山」あるいは「梁山泊」の所在が「山東省寿張県」と記されているが、寿張県という県は一九四六年に廃止されて陽谷県と范県(范県はそのとき山東省から河南省に移管された)に編入され、今はなく、地図には「旧寿張」となっている。梁山県は、抗
Author: 駒田信二 Year 1987 Issue 3 PDF HTML
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4. 「水滸」の旅 その三―山東省泰安県
梁山に登った翌日、私たちは泰山に登った。いうまでもなく、泰山は梁山とはくらぶべくもない大山である。むかしの中国では、泰山はあらゆる山のなかで最も高く、最もけわしく、そして最も尊い山だとされていた。また、天の中心にあるのは北斗星であって、春夏秋冬の運行をはじめとして地上の一切の節気の変化は北斗星によって行なわれるものと考えられていた。つまり泰山も北斗も、ともに地上の人々の仰ぎ見るものであるということ
Author: 駒田信二 Year 1987 Issue 4 PDF HTML
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5. 「水滸」の旅 その五―河南省開封市〈1〉
梁山泊から東京(とうけい)へ行くには、北宋のとき、どういう道を辿(たど)ったであろうか。『水滸伝』の第七十二回は、宋江ら十一人の頭領が山を下りて、元宵節の燈籠(とうろう)飾りを見に東京へ行くところから語りだされる。その十一人というのは、宋江のほかに、小旋風(しようせんぶう)·柴進(さいしん)、九紋龍(くもんりゆう)·史進(ししん)、没遮攔(ぼつしやらん)·穆弘(ぼくこう)、花和尚(かおしよう)·魯
Author: 駒田信二 Year 1987 Issue 6 PDF HTML
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6. 「水滸」の旅 その六―河南省開封南省開封市〈2〉
百二十回本『水滸伝』の第六回には、東京(とうけい)の大相国(だいしようこく)寺が次のように描写されている。〈山門は高く聳(そび)え、梵宇(ぼんう)は清幽。当頭の勅額は、字(じ)、分明に、両下の金剛は、形、猛烈なり。五間の大殿は、龍鱗(りゆうりん)の瓦砌(がせい)(いらか)碧(みどり)に行(れつ)を成し、四壁の僧房は、亀背(きはい)の磨磚(ません)花やかに嵌縫(かんぼう)(象眼)す。鐘楼は森立(しん
Author: 駒田信二 Year 1987 Issue 7 PDF HTML
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7. 殷墟―河南省安陽市(1)
「水済の旅」という名にふさわしい旅は開封市までであったが、私たちの「旅」はなおつづいた。開封から鄭州に向うバスの中で、私設秘書がいった。「開封の町には、どこにも交通信号がなかったわね。横断歩道もなかった。自転車天国みたいだった。わたしたちのバス、ブウブウ警笛を鳴らして、自転車の群れをかき分けるようにして町を出てきたでしょう」「そうだったかな」と私はいった。交通信号があったかなかったか、私はそんなこ
Author: 駒田信二 Year 1987 Issue 8 PDF HTML
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8. 文峰塔 袁世凱の墓―河南省安陽市②
昼食は太行賓館にもどって取ることになっていた。のどかな田園である小屯村。その田園の一郭にある殷墟陳列館。陳列館の内部と、外の田園とのあいだには、三千数百年のへだたりがあるのである。陳列館から出てきてからしばらくのあいだ、わたしは、田園風景の中で茫然としていた。荘子(そうじ)(荘周)の言葉を借りていえば、「知らず、周の夢に胡蝶と為(な)るか、胡蝶の夢に周と為るか」というような、虚無的なといってもよい
Author: 駒田信二 Year 1987 Issue 9 PDF HTML
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9. 打虎亭 漢墓―河南省密県③
鄭州市の中州賓館を午前七時半に出発。わたしたちはバスで密県の漢墓に向った。鄭州から密県まで、およそ四〇キロ。バスは南西の方向へ走っていく。その道の両側は、麦畑や棉(わた)畑がどこまでもつづいていて、太陽が照りつけている。「きょうは暑くなるよ。天気予報では三十八、九度になるといってたから」と康大川さんがいった。葱(ねぎ)を満載した何台もの荷車にすれちがう。バスはその荷車の列に砂ぼこりを浴びせて走って
Author: 駒田信二 Year 1987 Issue 10 PDF HTML
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10. 中岳廟、少林寺ほか―河南省登封県
密県の打虎亭漢墓を見てから、私たちはバスで登封県に向った。登封県は密県の西、約三十五キロ。中岳·嵩山(標高一四四〇メートル)の南麓にある。嵩山は、東岳·泰山(山東省)、西岳·華山(陝西省)、南岳·衡山(湖南省)、北岳·恒山(山西省)とともに「五岳」と呼ばれている高山であり、名山であって、中原(ちゆうげん)の地にあるので中岳といわれる。太室山と少室山とに分れ、太室山には二十四峰が、少室山には三十六峰
Author: 駒田信二 Year 1987 Issue 11 PDF HTML