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Your search : [ author:写真·文 何竜盛] Total 488 Search Results,Processed in 0.118 second(s)
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241. 北京大学で友好のシンポジウム
北京大学に日本研究センターができて満十年。それを記念して同センターは『伝統文化と中日両国の社会経済の発展国際シンポジウム』を四月八、九の両日、落成したばかりの同大学光華管理学院の講堂で開催した(写真)。論文を発表したのは、日本の早稲田大学とドイツのボン大学の教授十二名だが、そのほかにも白髪のベテランから少壮の研究者まで、そうそうたる顔ぶれが一堂に会した。とくに注目されたのが北京大学の前学長でいま全
Author: 写真·文 周衛軍 Year 1998 Issue 8 PDF HTML
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242. 猿人の故郷禄豊県から祭りにさんざめく三台郷へ
昆明から西南シルクロードを西へ60キロ行くと楚雄イー(弊)族自治州に入る。楚雄は雲南のへそとも言うべき土地で、昆明の滇池と大理の洱海との中間に位置し、昔から「西への喉口」と言われる交通の要衝だった。シルクロードの2本のメーンルートも、この土地を通る。すなわち東西の方向としては、楚雄から五尺道を東に向かって昆明に至り、西は大理に達する。南北の方向としては、四川の涼山から霊関道沿いに金沙江(長江上流の
Author: 写真·文 魯忠民 Year 1998 Issue 9 PDF HTML
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243. 三月街に百万の人出「地味肥沃、五穀養蚕によし」
雲の南、彩雲の祥州西南シルクロード西ルートの霊関道と、東ルートの五尺道とが合流する「彩雲南現」の土地。それが今の大理祥雲県の雲南駅だ。前漢の武帝は、インドへの道が西南地方にあることを知って大いに興味をかきたてられ、いつも宮殿から南の空を見ていた。ある日、彩雲(さまざまに彩られた雲)がしきりにたなびくので、これは瑞祥であるとして臣下にその跡を追跡させ、使臣たちはついに雲南駅に至ったという。漢の朝廷は
Author: 写真·文 魯忠民 Year 1998 Issue 10 PDF HTML
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244. 瀾滄江、怒江から高黎貢山を越えて
霽虹橋永平県杉陽郷と保山市水寨郷を結ぶ博南古道は、有名な籐篾橋で瀾滄江を渡る。遠く前漢の初期にトウの皮(籐篾)で作った吊り橋で、人はこれにぶら下がって川を渡った。後に木の橋となり、明代中期の1475年、中国最古の鉄の吊り橋が架けられる。60メートルの川幅に対して、橋は長さ106メートル、幅4メートル、18個の鎖からなり、虹のように空中にかかっているので「霽虹橋」と呼ばれた。1986年上流の山崩れで
Author: 写真·文 魯忠民 Year 1998 Issue 11 PDF HTML
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245. 国境の特区に未来への道象馬大戦·抗日戦争の戦場は今
騰衝、梁河を経て、永昌道は徳宏州に入る。中国における西南シルクロードの最後の区間であり、また風光の最も美しい地域でもある。古代の商人は騰衝、梁河を経て、一つは隴川県章風から、もう一つは盈江の古里検問所から、ビルマ(ミャンマー)に入った。元から清にかけては官道、商道ともに大盈江(イラワジ川の上流)を下り、天険の要地に税関が置かれていた。民国の時代は年間延べ9万頭の荷馬が往復したという。低緯度、亜熱帯
Author: 写真·文 魯忠民 Year 1998 Issue 12 PDF HTML
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246. 始皇帝の長城に登る
北京を初めて訪れた人は、必ず八達嶺の長城に足を運ぶに違いない。二千二百年前、初めて中国を統一した秦の始皇帝は、万里の長城の建設に多くの金と労力をつぎ込んだ。あまりにも有名な話なので、長城と言えば、秦の始皇帝がすぐに連想される。だが、有名な八達嶺の長城は、始皇帝の時代から千六百年も後の明代に築かれたものだ。専門家の最新の研究によると、秦の始皇帝が建造した長城のうち、最もよく原形をとどめているのは、陰
Author: 写真·文 劉世昭 Year 1999 Issue 2 PDF HTML
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247. 江南の水郷周荘をゆく
江蘇省の蘇州から東南に約三十キロ、湖をへだてて上海市の青浦県をのぞむところに、周囲を川に囲まれた周荘鎮という町がある。町の中をさらに四本の小さな川が「王」の字の形に流れ、遠く二千年以上も前の春秋戦国時代から、人々はこれらの川とともに生きてきた。さまざまの時代のさまざまの様式の橋が至るところにあり、民家はすべて水にのぞんで狭い土地に高く屋根を連ねる。その情景はまさに「小橋あり、流水あり、人家あり」「
Author: 写真·文 劉世昭 Year 1999 Issue 3 PDF HTML
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248. 大青山の主峰九峰に登る
ウラドを離れ、ウラ山の南のふもとに沿って東へ約百五十キロ行くと、陰山から流れるホンドロン河のほとりに出る。川を渡って、包頭市を抜け、大青山のふもとにあるトゥムド右旗を訪れた。大青山の主峰、九峰山のふもとに野生の動植物の豊富な自然保護区があると聞いて、標高二、三三七·八メートルの九峰山に挑戦した。昼食後、ジープに乗ってトゥムド右旗を出発した。車は山を登ったり、渓谷を走ったり、夕暮れになってやっと九峰
Author: 写真·文 劉世昭 Year 1999 Issue 3 PDF HTML
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249. 内蒙古の大草原を行く
陰山山脈の東の部分はなだらかな草原が広がる。景勝地ホイテン梁を訪れた。ホイテンというのはモンゴル語で涼しいとか寒いという意味で、梁は漢語で山の尾根。標高二、〇〇〇メートル、夏は涼しく、早くも北魏の時代(三八六~五三四年)に、避暑に訪れた皇帝もいる。その後、歴代の皇室の避暑地となった。草原には豊かな牧場があって、死火山の噴火口に水がたまって出来た九十九の湖が、草原にまき散らされた真珠のような景観を誇
Author: 写真·文 劉世昭 Year 1999 Issue 4 PDF HTML
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250. 梅里雪山―チベット八大霊峰の雄
名高い梅里雪山は雲南省とチベット自治区にまたがってそびえる。その雄大な姿と神秘的な伝説で、チベット族が八大霊峰の主峰として崇め続けてきた山だ。十三の峰が連なっているため「十三太子峰」とも呼ばれている。その一つ、海抜六千七百四十メートル、雲南最高峰のカカボ峰は今なお未踏の処女峰であり、その隣の美しいミエンツム峰はカカボの愛妻、と言われている。梅里雪山は万年雪と神秘的な霧のベールに覆われている。一九八
Author: 写真·文 成衞東 Year 1999 Issue 5 PDF HTML