Current Location: Home » Full Text Search
Your search : [ author:写真·文 何竜盛] Total 488 Search Results,Processed in 0.076 second(s)
-
231. 明代の兵士の子孫が生きる·安順
織金(チーチン)を離れ、烏江(ウーチアン)対岸の安順(アンシユン)市にやってきた。この町の歴史は春秋時代(前七七〇~前四七六年)にまでさかのぼる。そのときは牂牁(そうか)国に属し、戦国時代(前四七五~前二二一年)には夜郎国に属した。中国には「夜郎自大」という成語があるが、これは身のほどをわきまえずに威張ることを指し、漢時代(前二〇六~二二〇年)に西南にあったこの夜郎国の君主が、漢からの使者に向かっ
Author: 写真·文 劉世昭 Year 1998 Issue 1 PDF HTML
-
232. 古代に交易の栄えた町―滎経
滎経漢源瀘定康定滎経(インチン)は西南シルクロード沿いにある古い町だ。二千年ほど前、この地方に厳道という地名が見えるが、それは滎経県厳道(イエンタオ)鎮から西へ2キロの六合(リュウホー)郷古城坪(クンチヨンヒン)のことである。漢代に武帝が寵臣(ちょうしん)·鄧通(とうつう)に厳道の銅山を賜り、銭を作らせた。その時できた町の跡が発見されている。戦国時代から秦漢時代の厳道は軍事の要衝で、銅の鋳造の基地
Author: 写真·文 魯忠民 Year 1998 Issue 1 PDF HTML
-
233. 修文県の六広大峽谷
烏江(ウーチアン)の流れは、水源から三五〇キロほど離れて修文(シウウエン)県に入る。修文県の中心地から約一·五キロほどのところにある竜崗山(ロンカンンヤン)の陽明洞(ヤンミントン)は、明代の著名な思想家·王陽明ゆかりの地である。明の皇帝·武宗の治世―正徳元年(一五〇六年)、王陽明は無実の罪で貴州の竜場駅(現在の修文県県庁所在地)に左遷され、駅丞(えきじょう)(宿場を管理する役人)を務めた。王陽明は
Author: 写真·文 劉世昭 Year 1998 Issue 2 PDF HTML
-
234. 石畳に馬のひづめの跡が残る―霊関古道
甘洛越西霊関古道を尋ねて再び漢源にコマを戻そう。今回は深い谷の奥に消えた霊関古道を尋ねて、古代の交易ルートを追ってみる。漢源の南の峡谷をさらに先へ進むと、四川省凉山イ族自治州甘洛県にたどり着く。凉山イ族自治州は、四川省西南部の山地にあって、西昌、昭覚、布拖、喜徳、塩源など1市16県から成る。その内半分が古代シルクロード沿いにある古い町である。自治州の総面積は6万115平方キロ、中国最大のイ族居住区
Author: 写真·文 魯忠民 Year 1998 Issue 2 PDF HTML
-
235. 千四百年昔の石窟を丸ごと移転
五〇トン用のクレーンが、河南省新安(シンアン)県·西沃石窟(シーウオせっくつ)の仏像をそろそろと吊り上げる。千四百年前の北魏(ほくぎ)時代、この辺りを流れる黄河の南岸にそそり立つ山の絶壁に彫られた二百八十八の仏像の最後の一体である。九五年に始まった国家重点建設プロジェクト、黄河小浪底(シアオサンテノ)水利工事が完工すると、水位が上がり石窟が水没するため、岩壁に刻まれた貴重な文化遺産を全部切り取り、
Author: 写真·文 趙茂平 Year 1998 Issue 2 PDF HTML
-
236. 甕安(ウォンアン)―荒々しい烏江を“飼いならす”
烏江の流れは巨大なカルスト地形の流域に差し掛かった。流れはしばしば地下にもぐり、峡谷は一段と険しさを増し、世にも珍しい風景が広がる。地形が険しいために、烏江の上り下りは大変で、両岸の人々の行き来も容易でない。しかしこの辺りの住民は、千年単位の長い歳月を掛けて、荒々しいけものを徐々に飼いならすように、烏江と付き合ってきた。この地方では烏江を渡るということに多くのエネルギーが費やされている。舟の渡しは
Author: 写真·文 劉世昭 Year 1998 Issue 3 PDF HTML
-
237. 太古の母系家族制を保つ摩梭(モースオ)人―濾沽湖(ルークーフー)
昭覚昭覚―イ族の文化涼山(リアンシャン)は中国最大のイ族居住区である。イ族の総人口は545万人だが、四川省涼山には、その内の135万人が集中している。昭覚(チャオチュエ)は西昌(シーチャン)から東へ百キロほどの所、涼山の中部にある。人口は約20万人、イ族が90%を占める。標高2800メートルの碗廠郷(ワンチャンシアン)にある深い森には「布石瓦黒(フシワヘイ)と呼ばれる」所があり、そこに散在する巨石
Author: 写真·文 魯忠民 Year 1998 Issue 3 PDF HTML
-
238. 鳳凰塔の徳昌から鉄とソテツの攀枝花へ
徳昌西昌から南へ64キロ行ったところに涼山イ族自治州の徳昌の県城(県政府のある町)がある。高山に挟まれるようにして安寧河が流れ、川沿いに一条の道が通っている。この道は歴史が非常に古く、四川省成都と雲南省昆明を結ぶ鉄道成昆線やその二つの省を結ぶ川滇国道も、これと平行して走っている。がっしりとした体躯で有名な徳昌水牛がのっしのっしと農道を歩いている。折りから、道ばたの古木の向こうに夕日が沈み、えも言わ
Author: 写真·文 魯忠民 Year 1998 Issue 4 PDF HTML
-
239. オグロヅルの草海からキリスト教の村石門坎へ
五尺道は、雲南省の昭通から南東に折れて貴州省の威寧緊に入る。「夜郎自大」の成語で有名な夜郎国があったところだ。紀元前122年、西南シルクロードの視察を命じられた漢の武帝の使者が夜郎国を訪れたとき、国王が彼に「漢とわが国とはどちらが大きいか」と尋ねたという。この故事から、身のほど知らず、井の中のカエルのことを夜郎自大と言うようになったのだが、実際の夜郎国は戦国時代宋期に興り、その版図も今の貴州省、広
Author: 写真·文 魯忠民 Year 1998 Issue 7 PDF HTML
-
240. 諸葛孔明の古戦場から古道残る「銅の町」会沢へ
むかし阿詩瑪(アシマ)という美少女がいた。地主の息子とむりやり結婚させられることになったので、逃げ出して石になってしまい、いくら呼んでも返ってくるのはこだまばかりだった……威寧から五尺道を南下して、曲靖に着く。有名な阿詩瑪伝説のふるさとで、町にも阿詩瑪の像がしも立っていた。三国の時代、今度は諸葛孔明の「七縦七擒(しちしょうしちきん)」の舞台となる。孔明は魏を討つ前に背後を固めようと考え、南下して敵
Author: 写真·文 魯忠民 Year 1998 Issue 8 PDF HTML