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Your search : [ author:車慕奇] Total 48 Search Results,Processed in 0.122 second(s)
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11. 「徐福の故郷」で新説
よもやの「包囲攻撃」今度の山東半島めぐりは工場や農村を見学するほか、親戚友人を訪ねるのが目的で、考古学の研究をするつもりは毛頭なかった。ところが竜口につくと、竜口市共産党委員会宣伝部の徐さんが、昨年の『人民中国』三月号を手にしてこういった。―本号の特集「中国の徐福(じよふく)研究」では、徐福のふるさとは江蘇省の贛楡(かんゆ)県だと述べているが、有力な証拠もないし、分析も不十分だ。竜口市博物館の唐禄
Author: 本誌·車慕奇 Year 1993 Issue 9 PDF HTML
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12. 莫高窟の今と昔
敦煌研究院の創立五十周年を目前に控え、私は再び莫高窟を訪れた。私にとってこれは、四度目の敦煌訪問だった。文革中に初あて訪問私と莫高窟との縁は実に一九七五年にさかのぼる。文化大革命の災厄はまだ終わっていなかったが、一人のカメラマンと甘粛省を訪れたのを機に敦煌に足を伸ばしたのだ。当時は莫高窟を見学する人などほとんどいなかった。「批判」からはもう「解放」されていたとはいえ、常書鴻所長はまだそのショックか
Author: 本誌·車慕奇 Year 1994 Issue 2 PDF HTML
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13. 敦煌の華麗な変貌
敦煌は、甘粛省の西端に位置する人口十五万人ほどの都市だが、外国人にとっては、人口百五十万人の省都蘭州よりもずっと有名な存在となっている。「世界遺産」に指定敦煌市の面積は三万一四〇〇平方キロで台湾よりやや狭いが、その大部分は蒙古語でゴビと呼ぶ砂漠と石の山で、人間が生存できるオアシスはわずか四%、一二五六平方メートルしかない。「大きなキャンバス一面に黄色の砂漠を描き、ポトリと緑の色を落としてオアシスに
Author: 本誌·車慕奇 Year 1994 Issue 12 PDF HTML
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14. 『人民中国』はこうして生まれた外文局五十年の歩みをたどる
『人民中国』の前身『中国ダイジェスト』新中国誕生前夜の一九四九年九月、私は国際新聞局(いまの外文局[注释1]の前身)所管の『人民中国』社に配属されて、その編集者の一人となった。以来、定年退職するまでずっとここが私の職場であった。あれからあっという間に五十年の歳月が経ってしまった。周りを見てみると、『人民中国』を創刊した当時のスタッフは、この世を去ったかあるいは転職したかで、ずっとここに残った者は私
Author: 車慕奇(遺稿) Year 1999 Issue 6 PDF HTML
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15. 出立を前にして
わたしの机の前に「飛燕をしのぐ馬」と題する長さ一·五メートル、幅一メートルのカラー写真がかかっている。深夜、読書に疲れた時などに西域を奔放に駆けめぐり、今にも空を飛びそうなこの駿馬の勇ましい姿に目をやると、あのシルクロードへの様ざまな想いが浮かび上がって来る。西域の駿馬「飛燕をしのぐ馬」というのは、一九七二年、甘粛省武威県の東漢の古墳から出土した銅の馬である。三本の脚が空をけり一本の脚が燕の上に乗
Author: 本誌記者 車慕奇 Year 1979 Issue 1 PDF HTML
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16. 生きた歴史博物館
古文明のシンボル西安のあるデパートの絹製品売り場では、華やいだ笑い声のなかで、ヨーロッパの女性グループがあれこれ品定めをしていた。きらびやかな錦織りを肩に掛けてみて、夫の意見を求めているものもおれば、柔らかな手ざわりのよい絹製品をさすりながら、しきりとほめている人もいた。この五、六人の女性たちはかなりの絹織物を買い求めていった。なかでも二〇メートルも買った婦人は「フランスに帰ってから友だちに上げれ
Author: 本誌記者 車慕奇 Year 1979 Issue 2 PDF HTML
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17. 古代の国際都市―長安
一九五〇年代の始め、私は旅行の途中、西安に立ち寄ったことがある。ちょっとかいま見た程度のものだが、その時の印象はあまりよくなく、うらぶれた小さな都会といった感じであった。南の城門から歩いても二時間位で北の城門に着き、城門を一歩抜けると農村で、街の通りも狭く、緑樹はほとんど見かけなかった。あれから五年たった今、ふたたび西安を訪れたが、前回とは異なり、離れがたい思いにかられて、西域へ出発する日程を二、
Author: 本誌記者 車慕奇 Year 1979 Issue 3 PDF HTML
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18. 西行の絶景―麦積山石窟
西安を発ち、渭河の渓谷ぞいに西行する。急流が時には車窓の左を、時には右を走る。狭く深い渓谷のかたわらを小径がどこまでも続く。濁流とそれに沿う小径を眺めて、ふと思った。「これは唐代の高僧玄奘が経巻を招来するため西行したとき通った道ではなかろうか。漢代の張騫(ちようけん)が西域へ向う途中、馬に水を飲ませたのはこの河ではなかろうか」列車はいくつものトンネルを抜け、鉄橋を渡り、渓谷をめぐるようにして登って
Author: 本誌記者 車慕奇 Year 1979 Issue 4 PDF HTML
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19. 黄河越え
シルクロードの東の部分は甘粛省を横切る黄河に切断されているので、古人は長安を発って西域に向かうのに、黄河越えをしなければ、西域に通ずる帯状のオアシス地帯―河西回廊に入ることができなかった。私は汽車で西安を発ち、天水を経て甘粛省の省都蘭州に着き、そこから黄河を渡り河西に向かった。しかし、漢や唐の時代の人が西行する場合は今の鉄道や道路の路線を通ったわけではない。蘭州に着いてから、私は歴史地理の研究者に
Author: 本誌記者 車慕奇 Year 1979 Issue 5 PDF HTML
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20. 河西回廊に入る
蘭州から西に向かう蘭新鉄道の車窓から、流れ去る景色をむさぼるように見ていた。どこまでも澄みわたる空の、何という青さ。点々たる白楊樹はすでに黄ばんだ秋の装いで、空の青に思いきり身をのばしている。木々の向うの遠い山なみの、まろやかでありながら、どっしりとした姿に安らぎを覚える。砂礫と卵石をしきつめた限りない大地は、荒っぽくもあれば豪快でもある。初めて河西回廊に入って、何となく西北奥地の風光が判ったよう
Author: 本誌記者 車慕奇 Year 1979 Issue 6 PDF HTML