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Your search : [ author:李 譚] Total 1009 Search Results,Processed in 0.113 second(s)
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11. 風箏 哈魁明さん
「風箏の哈」といえば、北京では有名な回族の一家だ。話は清末にさかのぼる。哈国良という腕のいい左官が、琉璃廠に住んでいた。あたり一帯は有名な文化街。その雰囲気に感化されたのか、彼は風箏に興味を持つようになった。冬の仕事のひまなときに初めはただ見よう見まね、やがてあれこれと細かく研究を始め、だんだん独自のものを会得して行った。頭がよくて手先も器用、なによりも天分があったのだろう、彼はついに精妙で雅趣に
Author: 文·孟皋卿 写真·譚実 Year 1990 Issue 8 PDF HTML
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12. 壁面が伝える民の暮らし
楡林窟が造られたのは、沙州(現在の敦煌)の都から遠く離れた峡谷の中だ。地理的に西域の世界と接する楡林窟は、漢民族以外の民族文化の影響を多分に受けており、壁画にも当時の民の興味深い暮らしぶりが映し出されている。民の暮らし楡林窟第三窟に残る五十一面千手観音の変相図は、西夏(一〇三八~一二二七年)の社会生活の縮図というにふさわしい壁画だ。そこでは上から順に、次のような場面が描かれている。一、米搗き。ここ
Author: 文·譚蝉雪 写真·孫志軍 Year 2001 Issue 6 PDF HTML
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13. よくなつた農民のくらし
江蘇省の南匯県では―といつてもこれは何もこの県にかぎつたことではなく、全國的にみてそうなのだが―解放後のわずか四年あまりのあいだに、農民のくらしや文化がひじようにたかまつてきている。上海の東南方にあるこの県は一九四九年五月に解放された。人口は四十二万、そのうちの四十万が農民である。この県は揚子江以南の地区によく見かけられる県のひとつで、気候があたたかいうえに土地もよく肥えていて、農耕にはもつてこい
Author: 李崇 Year 1954 Issue 3 PDF HTML
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14. その道を歩んではいけない
一この何日間は、張拴(ヂヤン?スワン)が土地を賣るといううわさでもちきつていた。張拴の家は、もともと暮しに困るわけはなかつた。一家四人で、土地改革のときには一町歩ほどの土地をわけてもらつているのだし、互助組にはいるかどうかして畑仕事に精出してさえいれば、ゆつくり食つてゆけるはずだつた。ところが彼は、年は若いし力はあるし、それにいい牡牛ももつていたので、それをたのみに、あくまでひとりでやつていこうと
Author: 李準 Year 1954 Issue 4 PDF HTML
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15. その道を歩んではいけない
一この何日間は、張拴(ヂヤン?スワン)が土地を賣るといううわさでもちきつていた。張拴の家は、もともと暮しに困るわけはなかつた。一家四人で、土地改革のときには一町歩ほどの土地をわけてもらつているのだし、互助組にはいるかどうかして畑仕事に精出してさえいれば、ゆつくり食つてゆけるはずだつた。ところが彼は、年は若いし力はあるし、それにいい牡牛ももつていたので、それをたのみに、あくまでひとりでやつていこうと
Author: 李準 Year 1954 Issue 4 PDF HTML
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16. 生產の革新者王崇倫
王崇倫の名は、鞍山、上海、靑島、重慶をはじめ中國の多くの都市の工場労働者の手本となつている。この名前は労働者を力づけ、生產上の功績をめざす意欲にもえたたせている。王崇倫は労働戰線であげたすばらしい成績によつて労働模範にえらばれた。彼の先進的な経驗は中國の生產革新者たちによつて研究され見習われている。王崇倫は、鞍山鋼鉄公司機械本工場の労働者で、平削盤用の万能型テーブル台をつくつて、その作業範囲を拡大
Author: 李峰 Year 1954 Issue 5 PDF HTML
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17. 司馬村の新しい姿
河南省鄭州市の西、黄河の南岸にほど近いところに郞山という山がある。司馬村はこの山のふもとにある。もと成皋県の管轄下にあつたこの村は、いまは滎陽県にはいつている。年とつた人の話では、成皋県は解放前の数十年間一日として安らかな日がなかつたとのことである。軍閥や土匪や地主の武裝団が年中打ちあいをしていたし、わけても日本帝國主義者が黄河を渡つてからというものは、県民の苦しみはいつそうひどいものとなつた。土
Author: 李準 Year 1955 Issue 1 PDF HTML
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18. 新中國の一幕もの戲曲
中央人民政府文化部と中國演劇家協会がいつしよに編集、出版している月刊雜誌『劇本』は昨年一幕もの戲曲の募集をおこない、九篇の入選を発表した。この脚本募集は、一九五三年にはじまり、十一カ月間に六百六十七篇が集まつた。脚本の大部分は素人作家の手になつたもので、內容は主として労働者、農民、少数民族、都市、学校の生活を描き、いろんな角度から多彩な現実をうつしだしているが、形式は新劇、新歌劇、地方歌劇などにわ
Author: 李訶 Year 1955 Issue 2 PDF HTML
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19. 穀物の統一的な買いつけと供給
一九五三年の冬から、政府は農民のあまつた穀物を統一的に買いつける政策を実施し、これによつて全國の商品穀物をその手ににぎるとともに、経済建設と人民生活の必要に應じて、穀物を計画的に供給することにした。こうして、穀物の賣買は、自由市場からまつたく姿をけした。これは、政府が農業の社会主義的改造をすすめてゆくうえでの重要な措置の一つであつた。こうした措置が穀物にたいする各方面の日ましに高まる需要を適度にみ
Author: 李莊 Year 1955 Issue 8 PDF HTML
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20. 日本木版画展覽会をみて
中國美術家協会の主催のもとに、七月二十九日から八月十四日まで北京で『日本木版画展覧会』がひらかれた。出陳された作品の数は二百二十二点にたつし、日本版画運動協会が最近中國美術家協会に寄贈したものと、この一年らい日本各地の版画家が中國の版画家に贈つたものからなつている。展覽会はひじような好評をはくし、おおぜいの観覽者がおしよせた。日本の版画にはすぐれた傳統がある。德川時代に町人の文化がさかえた十八世紀
Author: 李樺 Year 1955 Issue 10 PDF HTML