Current Location: Home » Full Text Search
Your search : [ author:北京放送 日語部 石川聡美] Total 50 Search Results,Processed in 0.100 second(s)
-
11. 教師からみた日本人留学生
この数年来、多くの日本人が中国語を学ぶ留学生としてうちの大学へ修学に来る。その中には学者、専門家、記者、ビジネスマン、農民、修理工、主婦などがおり、長期研究者と短期研修生に分かれる。また第二次大戦を経験した老人から二十代の若者までという複雑な構成である。私は何かの縁で、その数多い日本人たちの先生を務めることになった。五十年前私は中国にいた今回は期限一カ月の中国語研修コース。教室に入って見ると、学生
Author: 北京放送大学の教室記録 魯景超 Year 1994 Issue 6 PDF HTML
-
12. 井上靖さんの書き初め
メモをみると、一九八九年五月二日の午後となっている。北京放送の東京支局長をしていたわたしは、東京·世田谷のお宅に、作家の井上靖さん(一九〇七~一九九一年)を訪ね、四時間近くお話をうかがった。孔子のこと、黄河と揚子江、漢字、健康法……。十数年たったいまも、珠玉のような輝きを放つ井上さんの言葉のかずかずが、鮮明な記憶となって、わたしの脳裏に刻まれている。井上さんはその力作『孔子』を書くため、孔子が生き
Author: 北京放送元副編集長 李順然 Year 2005 Issue 1 PDF HTML
-
13. 革命とスッポン
中日友好協会の会長だった廖承志さん(一九〇八~一九八三年)は、日本の東京生まれの東京育ち、きれいな日本語を話した。折にふれ、江戸っ子の人情、諧謔(かいぎゃく)、気風(きっぷ)を感じさせる人だった。だがその一方で、中国共産党中央政治局員というれっきとした革命家の肩書きを持つ人でもあった。六回も捕らえられ、六回も牢獄につながれた革命の闘士でもあった。廖承志さんにはエピソードが多いが、こんな話もある。一
Author: 北京放送元副編集長 李順然 Year 2005 Issue 2 PDF HTML
-
14. 歴史の語り継ぎ
現代中日交流史の生き字引のような人がいた。中日友好協会の初代秘書長だった趙安博さん(一九一五~一九九九年)である。趙さんは、一九三四年に日本に留学し、第一高等学校(現在の東大教養学部)で学んだ。一九三七年に中日全面戦争が始まるとすぐに帰国し、中国共産党指導下の八路軍の一二〇師団三五九旅団の対日本軍工作科の科長となる。この三五九旅団が、日本の兵士も民衆だとして、日本の捕虜に馬と食糧を渡し、道案内まで
Author: 北京放送元副編集長 李順然 Year 2005 Issue 3 PDF HTML
-
15. 背の低い人は長寿?
二十世紀も余すところ、十年といったころのことだ。北京放送の東京支局長をしていた私は、何回か宇都宮徳馬さんとお話しする機会があった。日中友好協会の会長をしておられたので、中国人のわたしとの間の話題は、いつも中日友好だった。宇都宮さんは「私にとって日中友好は、どういう世紀を次の世代に遺していくかということと繋がる問題なんですよ。日中友好の、平和な明るい二十一世紀を次の世代に遺していきたいですね。私が軍
Author: 北京放送元副編集長 李順然 Year 2005 Issue 4 PDF HTML
-
16. 溥傑さんとバス
中国最後の封建王朝である清のラストエンペラーで、かいらい満州国皇帝だった溥儀の弟の溥傑さん(一九〇七~一九九三年)との初対面は、混みあうバスの中だった。一九八〇年代のことである。私は北京史研究会という市民団体の会員で、溥傑さんはこの会の役員をしていた。溥傑さんも、私もこの会の会議に向かう途中だった。新聞やテレビで溥傑さんの顔をみて知っていた私はバスを降りると「溥傑先生、北京史研究会の会議ですか」と
Author: 北京放送元副編集長 李順然 Year 2005 Issue 5 PDF HTML
-
17. 「天に順う」に造反した男
早稲田大学卒業の知日派の康大川さんは、一九五三年に『人民中国』が発刊されたときから、一九八六年に定年退職するまで、そのほとんどの期間、この雑誌の編集長だった。康大川さんの名前は、もともと「康天順」だった。孟子の「天に順(したが)う者は存す」といった言葉にルーツがあったのだろう。だが康さんは、「天に順う」を好(よ)しとせず改名した。まず「天」から頭の上で自分を押さえつけている横棒を一本取り去り「大」
Author: 北京放送元副編集長 李順然 Year 2005 Issue 6 PDF HTML
-
18. 「情」は最良の潤滑油
中日友好協会の会長をしていた孫平化さん(一九一七~一九九七年)は、情に厚い人だった。こんなことがあった。中日友好協会の初代の会長だった廖承志さんが亡くなったのは、一九八三年六月十日だったが、それから半月ほどしたある日、北京放送では孫さんをスタジオにお招きして、廖承志さんを偲ぶお話をお願いした。日本向け番組なので、もちろん日本語で録音する。「十五分の番組だから、前後の紹介アナウンスを差し引いて正味十
Author: 北京放送元副編集長 李順然 Year 2005 Issue 7 PDF HTML
-
19. 反戦訴えた二人の日本女性
原清子さんは、一九一二年に東京で生まれた。中日戦争が始まる前夜に中国人留学生と結婚し、中国大陸に渡る。その後、中国革命の聖地といわれる陜西省の山奥の延安に入り、延安の新華放送局のアナウンサーとして、マイクを通じて、中国に侵入した日本軍兵士に、日本語で反戦を訴えた。当時の延安では、中国北部で八路軍(中国共産党の指導する軍隊)の捕虜になった日本の元兵士が日本反戦同盟をつくり、日本軍に対する反戦活動を進
Author: 北京放送元副編集長 李順然 Year 2005 Issue 8 PDF HTML
-
20. 音楽を聞くような秋の空
色彩の魔術師、梅原竜三郎(一八八八~一九八六年)は、北京を六回訪れている。そして、多くの傑作を残したが、六回の訪問のうち五回は、秋の北京だった。美しいものしか描かないという梅原は、北京の何に美しさを感じたのだろうか。おそらく北京の秋、とりわけその空だったと思う。梅原は、北京の秋の空についてこう書いている。「秋の高い空に興味をもった。何だか音楽を聞いているような空だった」秋の陽に輝く紫禁城の黄色の瑠
Author: 北京放送元副編集長 李順然 Year 2005 Issue 9 PDF HTML