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Your search : [ author:沈延太] Total 46 Search Results,Processed in 0.161 second(s)
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1. ダイ族の水かけ祭り
〈グラフ参照〉陽春の三月、記者は雲南省のシーサンパンナ(西双版納)に住むダイ(傣)族の水かけ祭り(中国語で潑水節(ポーシユイチエ)という)を取材するため、省都昆明から空路一時間で辺境の町思茅についた。そこからまた自動車に乗りかえ、曲りくねった山道と原始林を抜けて、五、六時間走ると、瀾滄江(ランツアンジアン)に面した景洪にたどり着く。ここは、シーサンパンナ·ダイ族自治州の州都である。ダイ族の総人口は
Author: 沈延太 Year 1981 Issue 3 PDF HTML
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2. 農民カメラマン 張り切る
新しい時代がやってきた新婚旅行で杭州に行ってきたばかりの若いカップルが、村に戻るとすぐに彭浦(ほうほ)郷文化センターに駆け込んだ。センターでカメラ技術を教えている程さんに相談するためだった。二人は新しいカメラを買い、西湖でハネムーンをすごすため喜びいさんで出かけたのだが、どうしたことだろう、撮ったフィルムを現像してもらったところ、構図はいいかげん、絞りもなってなくて、せっかくの記念写真がみなピンボ
Author: 沈延太 Year 1986 Issue 11 PDF HTML
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4. 清朝崩壊から80年ラストエンペラーの一族はいま……
中国史上最後の封建王朝となった清朝は、もと東北の地から起こり、中国本部に攻め入って北京を都と定め、全中国を統一した。時に1644年、この広大な天地に君臨する皇帝として、愛新覚羅(アイシンキヨロ)の姓は至上の栄光に包まれた。それから10代、皇帝溥儀(フイ)が即位して3年後の1911年、この年の干支から辛亥革命と呼ばける革によって、彼ら一族はその地位を追われ、続く80年の激動の歴史の中で、はげしい転変
Author: 写真 沈延太 Year 1990 Issue 11 PDF HTML
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6. 朝市、京劇、小鳥飼い…
北京観光といえば故宮から始めるのが普通のコースだ。故宮は別名紫禁城、北京の中心部に位置し、「城の中の城」とも言える。明の第三代皇帝永楽帝(在位一四〇二~一四二四)のとき全国から優れた工匠を集め、二十万余の人夫と軍隊を動員し、十四年がかりで造営された巨大な建築群だ。周囲三千五百メートル、南北九百六十メートル、東西七百六十メートル、そして城壁の高さは七·九メートルに及ぶ。城の四隅を角楼が押さえ、「九梁
Author: 沈延太 王長青 Year 1998 Issue 8 PDF HTML
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7. 前門、大柵欄かいわい
地方の人びとが前門を北京のシンボルのように思うのは、ふしぎでもなんでもない。現に四十数年前、私が故郷の江蘇省から初めて北京に来たときも、北京駅は前門のすぐ東どなりにあったのだ。駅の玄関を出てまず目に飛びこんできたのは、雄大で荘厳な正陽門(前門の正式の名称)と箭楼(せんろう)だった。ともに五百年以上の歴史をもっているのに、まだできたばかりのように思われ、その輝かしさはまさに古代建築の傑作というにふさ
Author: 沈延太 王長青 Year 1998 Issue 9 PDF HTML
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8. 伝統技術も見事に保存
六〇年代の初め、まだ中央美術学院の学生だった私は、美術の基礎の勉強と書画の鑑賞を兼ねて、美術館や故宮博物院の絵画館をよく訪ねた。中でも、拓本、陶磁器などの店が集まった和平門外の瑠璃廠(リューリーチャン)には、もうしょっちゅう通っていた。この瑠璃廠は、東は延寿街から西は北柳巷·南柳巷に至るまでわずか七百五十メートルの古い文化街だが、訪れるたびにまた来ようという気持ちにさせられたものだ。土地のある古老
Author: 沈延太 王長青 Year 1998 Issue 10 PDF HTML
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9. イスラム教徒の牛街 四合院にも独特のふんい気
天安門から西南へ約六キロ行ったところにある牛街(ニウジエ)は、北京で最大の回民(イスラム教徒)居住地だ。全長一キロ足らずのこの通りをはさんで、大小数十本の胡同がつらなっている。道幅がそう広くないので、よく茂ったエンジュの並木がすっぽり道路を覆い、清潔で整然とした趣。道を行く人々は白い礼拝帽をかぶったものが多く、雑踏の中にもやさしさと静けさが感じられる。ここには回民のための小学校、中学校がある。南口
Author: 沈延太 王長青 Year 1998 Issue 11 PDF HTML
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10. 老北京きっての歓楽街
前門から南下する前門大街を通り抜けて天壇公園の西側に出たところに、老北京でも指折りの歓楽街として栄えた天橋がある。天橋の名は、かつてそこにあった石橋から来ている。史料の記すところによると、この辺りは元から清代初期にかけて水と沼の多い土地で、「野の水は満ちあふれ、風に荻の花そよぐ」ありさまだったという。しかし元代には、すでに北京の文人墨客、官僚たちの行楽や保養の地となっていた。夏から秋にかけて画舫(
Author: 沈延太 王長青 Year 1998 Issue 12 PDF HTML