Current Location: Home » Full Text Search
Your search : [ author:写真 ·文 劉世昭] Total 5016 Search Results,Processed in 0.122 second(s)
-
3261. われらが心意気ここにあり天津の民間広場芸術祭の壮観
天津の民間広場芸術祭では、天津人はこれまでも世界各国からのお客さんたちに、独特の伝統芸術を披露してきた。美しい天津民謡「画扇面」のメロディーにのって、巨大な年画(新年を祝うめでたい絵)がゆっくりと広げられていく。布に描かれたこの魚の絵は球場をうめてしまうほどの大きさがあり、絵の上に百人以上の子どもたちがのって、歌いながら踊り始める。お客さんたちはむかしから伝えられてきたこの出し物を存分に楽しみ、同
Author: 写真 陳宗烈 Year 1993 Issue 3 PDF HTML
-
3262. 白血病に新療法臍帯血の造血細胞を移植
骨髄移植によらず、臍帯血の中の造血細胞を使って、中、晩期ガン、白血病、再生不良性貧血などが治療できるようになった。これは山東医科大学付属病院の、低温医学骨髄移植研究室がはじめたもので、沈柏均助教授が指導する試験室では、すでに四歳から十七歳までの患者十一人に、臍帯血の造血細胞移植術をして、すべて成功している。目下、世界で行われている骨髄移植は、骨髄組織の型が適合するかどうかが問題で、きょうだいの間で
Author: 写真 呉増祥 Year 1993 Issue 4 PDF HTML
-
3263. なんと北京市保険公司が目抜き通りに質屋を開いた
一九四九年以後に生まれた中国人は、テレビや映画でしか質屋を知らない。牢獄のような入り口、高いカウンター、ずるがしこくて残忍非情な店主、生活に困窮して質入れに来るあわれな人びと……なにやら無気味で陰気だ。質屋が姿を消し鳴りをひそめてから半世紀になる。ところが、一九九二年の十一月二十日、北京の繁華街の一角に、「金保典当行」の看板がまたまた上がったのだ。若い人たちは、一体なんだろうと店に入ってあれこれ聞
Author: 写真 陳暁偉 Year 1993 Issue 4 PDF HTML
-
3264. 一番乗りは中国人だ!みごと成功、長城ジャンプ
オートバイで谷や川を飛び越えた人は多いが、中国の万里の長城を飛んだ例はなかった。一九九二年十一月十五日、それを果たしたのが柯受良さん(39)だ。柯さんは浙江省三門県に生まれ、のちに台湾に移った。父は漁民で、柯さんは子供のときから頑丈な体と冒険心を持っていた。十六歳で単身台北に出て、映画の「特技俳優」になった。一九七五年には、台湾のオートバイ障害レースで優勝。二年後にこんどは香港の映画界に入って、『
Author: 写真 程至善 Year 1993 Issue 4 PDF HTML
-
3265. 靴の町―武清
天津市武清県は市の西北部にあって天津港に隣接し、東は渤海に臨み、北に北京を控えている。面積1574平方キロ、人口は78万だ。武清は明、清時代から靴の生産が盛んなところで革靴の里といわれてきた。現在は98の工場がフォーマル、カジュアル、スニーカー、防寒靴など十数種類の靴を、年間1000万足生産している。物が良く値ごろなので、製品は国内各地はもとより海外30余の国、地域に輸出される。中国バスケットボー
Author: 写真 王恩普 Year 1993 Issue 5 PDF HTML
-
3266. 公募でトリ年の記念切手栄冠は75歳のおばあさんに
中国郵票総公司と言えば、中国の郵便切手の総元締。一九八一年のトリ年から、一流の画家やイラストレーターのデザインによる十二支記念切手を発行してきましたが、その十二支が一巡した一九九三年は、一般から募集した作品を選考委員会で選ぶというコンクール方式を採用、数百点の中から河北省の農民出身で七十五歳の女性蔡蘭英さん(写真左)の切り紙が初の栄冠を射止め、大きな話題となりました。蔡さんは血色がよく、七十五歳を
Author: 写真 于永甫 Year 1993 Issue 5 PDF HTML
-
3267. また一つ友好のモニュメント飯能市の竹寺に牛頭明王像
千年の歴史を持つ埼玉県飯能市の竹寺に、中国から牛頭明王(ごずみょうおう)のブロンズ像が寄贈され、昨年十一月十一日その開眼供養の式典が行われた。像は高さ二〇四センチ、重さ七〇〇キロ。台座に刻まれた「牛頭明王」の四字は、書家としても有名な趙樸初·中国仏教協会会長の揮毫、かたわらに立つ石碑の「牛頭明王東渡紀念」は、啓功·中国書法家協会名誉主席の揮毫。この仏像が竹寺に寄贈されてきたいわれはこうだ。同寺の大
Author: 写真 李恵春 Year 1993 Issue 5 PDF HTML
-
3268. 初の私立日本語学校 きっかけは元日本兵の報恩から
中国で初めての私立日本語学校を、二校も設立した人がいる。その名を許景義さんという。話は一九四五年にさかのぼる。鴨緑江をはさんで朝鮮の新義州と向かい合った丹東で、一九四五年八月、畑野修平という日本兵が重傷で苦しんでいたが、于維沢という農民に助けられ、一命をとりとめた。九カ月後、畑野さんは日本に帰ったが、于さんの恩を忘れたことはなかった。一九七九年八月、日本から訪中した日本海四県経済貿易代表団の中に、
Author: 写真 呉増祥 Year 1993 Issue 6 PDF HTML
-
3269. 四大機関が一斉移転 スタートした青島の大計画
山東半島南岸のほぼ中央部に位置する青島で、市の四大機関の一斉移転という「大事件」が起こった。青島は、古い歴史を持つ港湾·工業都市。一九八〇年代前半には「計画単列都市」(上部の山東省を通さず直接国との折衝で諸計画を実行できる都市)に指定されており、風光明媚の観光都市としても有名だ。その総面積は一万平方キロもあるが、旧市内はわずか九二平方キロ。三方が海に面し、陸地は東側にしかないので、狭い土地は建物で
Author: 写真 田振冒 Year 1993 Issue 6 PDF HTML
-
3270. プロボクシングのタイトルマッチ 快挙!北京の無名会社がプロモート
この春、北京が挑戦した最大の冒険といえば、「中国にとって最大の試練」とみられたプロボクシングの世界タイトルマッチが行われたことだろう。かつて中国でもボクシングは盛んだったが、一九五九年に選手の死亡事故があって以来、禁止されていた。八六年に再開されてアジア大会で金メダルを取ったこともあるが、これはむろんアマの話。八〇年代後半にプロボクシングを中国でやろうとした米国人がいたが、政界からも経済界からも賛
Author: 写真 官天一 Year 1993 Issue 7 PDF HTML