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Your search : [ author:陳舜臣
写真=陳立人] Total 22 Search Results,Processed in 0.107 second(s)
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11. 西安
西安市は日本の京都と奈良の両市と、友好都市関係を結んでいます。日本が平城(奈良)に遷都したのは、七一〇年のことでした。平安(京都)遷都は七九五年です。どちらも首都づくりにさいしては、唐のみやこ長安をモデルにしました。もっとも長安は巨大すぎますので、モデルにするといっても、だいぶ縮尺しています。現在の西安市が、かつての長安でしたから、京都と奈良との友好都市関係は、きわめてとうぜんといえるでしょう。西
Author: 陳舜臣 Year 1979 Issue 10 PDF HTML
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12. 南京
地理についての知識があまりない人でも、南京に来てみれば、―ああ、ここは要害の地だな。ということがわかります。中国最大の河川の長江(揚子江)が、鄱陽(はよう)湖の近くから北東に流れて安徽省を横切り、江蘇省にはいって、ようやく東へカーヴしょうとする地点の南東に、南京市が位置しているのです。長江に面している北を除く三方は、丘陵に囲まれているのですから、しろうとの目にも天然の要害にみえます。むかしから、こ
Author: 陳舜臣 Year 1979 Issue 11 PDF HTML
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13. 上海
西安や洛陽が中国古代史の中心なら、上海は中国近代史の一つの大きな中心といえるでしょう。こころみに、地図で中国の海岸線をながめてみましょう。遼東半島と山東半島という二つの大きな半島が渤海を包みこみ、その南に黄海、東海、南海がつながっています。そして、この長い海岸線の中心はどこかといえば、長江(揚子江)河口のあたりで、上海はまさにそこにあるのです。扇でいえば、それは要(かなめ)の部分にほかなりません。
Author: 陳舜臣 Year 1979 Issue 12 PDF HTML
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14. 杭州
1甲骨文字からはじまって、中国の太古の記録は、ほとんどが黄河中流地域にかんするものでした。そのため、これまでの史書にも、中原の文明がしだいに南へ伝わったように記されることが多かったようです。もちろん北から南へ伝わった文明もありましたが、かといって、それまで南方は文明がまったくなかったのではありません。ことに近年の考古学的発掘によって、中国の南方にも古くからすぐれた文明が存在したことが証明されていま
Author: 陳舜臣 Year 1980 Issue 1 PDF HTML
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15. 広州
広州はむかしから、海にむかってひらかれた中国の南の窓でした。この地には五人の仙人が羊にのってやって来たという伝説があり、そのため五羊城という別称があります。これも伝説ですが、春秋末期、呉と越とが長いあいだ戦い、越王勾践がついに呉をほろぼしたとき、呉の王族が逃がれて、いまの広州に「南武城」を築いたともいわれています。ところが、戦国時代になって、越も楚のためにほろぼされ、越王の子孫がこの地に亡命して、
Author: 陳舜臣 Year 1980 Issue 2 PDF HTML
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16. 湖南と湖北
洞庭湖は中国の臍(へそ)といってよいでしょう。湖水の面積は季節によって大きな差があり、冬から春にかけて水位が低下する時期は三千平方キロほどになりますが、夏の増水期には四千平方キロていどに達します。これは江西省鄱陽湖についで、中国第二の淡水湖です。淡水湖とわざわざことわったのは、鹹水湖を含めますと、青海省の青海湖が二位にはいってくるからです。日本最大の琵琶湖が約六百八十平方キロですから、それとくらべ
Author: 陳舜臣 Year 1980 Issue 4 PDF HTML
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17. 東北
秦の始皇帝は、戦国の諸国を撃破して中国を統一したのですが、燕をほろぼすときは、とくに敵愾心を燃やしたようです。燕という国は、現在の北京あたりを本拠にしていましたが、その版図は現在の東北といわれる地方の南部に及んでいました。燕の太子の丹(たん)が、荊軻(けいか)という刺客を秦に送って、始皇帝を暗殺しようとしたのは、紀元前二二七年のことでした。暗殺は未遂に終わり、荊軻は殺されるのですが、始皇帝の胸は怒
Author: 陳舜臣 Year 1980 Issue 5 PDF HTML
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18. 新疆ところどころ
新疆ウイグル自治区は、古くから「西域」と呼ばれてきた地方です。面積は百六十余万平方キロで、中国で最も広い省区であります。ちなみに日本の面積は三十七万平方キロですから、その四倍以上になるわけです。けれども、その大部は砂漠と山地に占められています。自治区のほぼ中央を天山山脈が走っていて、それより北を「北疆(ペイチヤン)」、南を「南疆(ナンチヤン)」と呼ぶのがふつうです。北疆には准噶爾(ジユンガル)盆地
Author: 陳舜臣 Year 1980 Issue 6 PDF HTML
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19. 福建
1福建省は日本とたいそう縁の深い土地です。たとえば宇治黄檗山万福寺の本山は、福建の黄檗山でありました。宇治万福寺の隠元和尚をはじめ、歴代の住職、あるいは長崎の中国寺の僧侶たちは、福建出身もしくは福建とゆかりのある人が多かったのです。徳川幕府は鎖国政策をとりましたが、島津藩に支配されていた琉球は、清国から冊封を受けて、朝貢という形式の通商を長年にわたってつづけていました。事実上は、島津藩の対中国貿易
Author: 陳舜臣 Year 1980 Issue 7 PDF HTML
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20. 蘇州そして揚州
日本で最もよく知られている唐詩を一首挙げよといわれると、それは杜甫や李白のものではなく、あまり著名な詩人とはいえない張継の『楓橋夜泊』ということになるでしょう。月落ち烏啼いて霜天に満つ 江楓(こうふう)、漁火、愁眠に対す 姑蘇(こそ)城外寒山寺
Author: 陳舜臣 Year 1980 Issue 8 PDF HTML