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Your search : [ author:陳舜臣] Total 22 Search Results,Processed in 0.301 second(s)
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1. 友好雑感
私が住んでいる神戸市に有馬温泉がある。市内といっても、戦後編入された新市区で、旧市街区は六甲連山の南にあり、温泉の出る有馬はその北にあり、郊外といったかんじがする。もっとも近年、六甲山に二つのトンネルが掘られ、交通はずっと便利になった。市の中心部から半時間ほどで行ける。そこに市立有馬温泉会館があり、その前に 日本第一神霊泉 と刻んだ古い石碑が立っている。 そして、その下に 姑蘇 江芸閣 と、おなじ
Author: 陳舜臣 Year 1979 Issue 1 PDF HTML
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2. 中国历史の旅
次号(4月号)より連載開始中国は歴史の宝庫です。どの山にも河にも、どの町にも建物にも、深い味わいのある歴史が刻みこまれています。しかもそれは、単に過去として切り離されたものでなく、数千年の昔から今日の革命中国に至るまで息づく生命をもちつづけ、人民の血と汗と英知とがにじんでいるのです。そこにはまた、日本との長い交流の歴史のなかで、お互いの先人たちが残した足跡も少なくありません。これらの由来を知るとき
Author: 陳舜臣 Year 1979 Issue 3 PDF HTML
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3. 甘粛ところどころ
一いま日本ではシルクロード·ブームです。それにかんする展覧会には、おおぜいの人がおしかけて参観し、それにかんする書物はひろく読まれています。シルクロードということばは、ドイツの地理学者のリヒトホーフェンが、はじめて言いだしたもので、十九世紀末の造語です。それがいつのまにか普及して、中国でもそれを訳して「絲綢之路」と呼ぶこともあります。古代、東の中国にたいして、西にローマという文明圏がありました。東
Author: 陳舜臣 Year 1979 Issue 9 PDF HTML
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4. 西安
西安市は日本の京都と奈良の両市と、友好都市関係を結んでいます。日本が平城(奈良)に遷都したのは、七一〇年のことでした。平安(京都)遷都は七九五年です。どちらも首都づくりにさいしては、唐のみやこ長安をモデルにしました。もっとも長安は巨大すぎますので、モデルにするといっても、だいぶ縮尺しています。現在の西安市が、かつての長安でしたから、京都と奈良との友好都市関係は、きわめてとうぜんといえるでしょう。西
Author: 陳舜臣 Year 1979 Issue 10 PDF HTML
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5. 南京
地理についての知識があまりない人でも、南京に来てみれば、―ああ、ここは要害の地だな。ということがわかります。中国最大の河川の長江(揚子江)が、鄱陽(はよう)湖の近くから北東に流れて安徽省を横切り、江蘇省にはいって、ようやく東へカーヴしょうとする地点の南東に、南京市が位置しているのです。長江に面している北を除く三方は、丘陵に囲まれているのですから、しろうとの目にも天然の要害にみえます。むかしから、こ
Author: 陳舜臣 Year 1979 Issue 11 PDF HTML
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6. 上海
西安や洛陽が中国古代史の中心なら、上海は中国近代史の一つの大きな中心といえるでしょう。こころみに、地図で中国の海岸線をながめてみましょう。遼東半島と山東半島という二つの大きな半島が渤海を包みこみ、その南に黄海、東海、南海がつながっています。そして、この長い海岸線の中心はどこかといえば、長江(揚子江)河口のあたりで、上海はまさにそこにあるのです。扇でいえば、それは要(かなめ)の部分にほかなりません。
Author: 陳舜臣 Year 1979 Issue 12 PDF HTML
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7. 杭州
1甲骨文字からはじまって、中国の太古の記録は、ほとんどが黄河中流地域にかんするものでした。そのため、これまでの史書にも、中原の文明がしだいに南へ伝わったように記されることが多かったようです。もちろん北から南へ伝わった文明もありましたが、かといって、それまで南方は文明がまったくなかったのではありません。ことに近年の考古学的発掘によって、中国の南方にも古くからすぐれた文明が存在したことが証明されていま
Author: 陳舜臣 Year 1980 Issue 1 PDF HTML
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8. 広州
広州はむかしから、海にむかってひらかれた中国の南の窓でした。この地には五人の仙人が羊にのってやって来たという伝説があり、そのため五羊城という別称があります。これも伝説ですが、春秋末期、呉と越とが長いあいだ戦い、越王勾践がついに呉をほろぼしたとき、呉の王族が逃がれて、いまの広州に「南武城」を築いたともいわれています。ところが、戦国時代になって、越も楚のためにほろぼされ、越王の子孫がこの地に亡命して、
Author: 陳舜臣 Year 1980 Issue 2 PDF HTML
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9. 湖南と湖北
洞庭湖は中国の臍(へそ)といってよいでしょう。湖水の面積は季節によって大きな差があり、冬から春にかけて水位が低下する時期は三千平方キロほどになりますが、夏の増水期には四千平方キロていどに達します。これは江西省鄱陽湖についで、中国第二の淡水湖です。淡水湖とわざわざことわったのは、鹹水湖を含めますと、青海省の青海湖が二位にはいってくるからです。日本最大の琵琶湖が約六百八十平方キロですから、それとくらべ
Author: 陳舜臣 Year 1980 Issue 4 PDF HTML
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10. 東北
秦の始皇帝は、戦国の諸国を撃破して中国を統一したのですが、燕をほろぼすときは、とくに敵愾心を燃やしたようです。燕という国は、現在の北京あたりを本拠にしていましたが、その版図は現在の東北といわれる地方の南部に及んでいました。燕の太子の丹(たん)が、荊軻(けいか)という刺客を秦に送って、始皇帝を暗殺しようとしたのは、紀元前二二七年のことでした。暗殺は未遂に終わり、荊軻は殺されるのですが、始皇帝の胸は怒
Author: 陳舜臣 Year 1980 Issue 5 PDF HTML