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Your search : [ author:華 梅] Total 661 Search Results,Processed in 0.196 second(s)
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11. スカートが作る魅力
十数年前、一人の有名な産婦人科の女性医師がオーストラリアのあるクラブに入ろうとしたとき、彼女がテン皮のショートコートの下に長ズボンを穿いていたので門番に入場を拒否されました。このクラブに入る女性はスカート姿でなければならない仕来りがあったのです。彼女はとっさの判断で長ズボンを脱ぎ、「風変りなテン皮のミニスカート」を思わせるショートコート姿で無事受け付けを通過したそうです。女性のスカート姿は万人が是
Author: 華梅 Year 1996 Issue 12 PDF HTML
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12. 髪飾りあれこれ
大家の令嬢李秀英は書生の王玉林と結婚しました。ところが新婚の夜、王は家の外で一通の封筒を拾いました。開けてみると、中味はなんと新妻が自分の従兄にあてたラブレターと碧玉のかんざしだったのです!かんざしは男女の愛情を誓うしるしだったので、王はそれを妻の不倫だと思い込み、二人の婚姻は破局寸前まで行きます。後で分かったのですが、かんざしは秀英の化粧台から盗んだもので、ラブレターも従兄が偽造したものでした。
Author: 華梅 Year 1997 Issue 1 PDF HTML
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13. 衣服にまさる装身具の美
伝統的な京劇に『摘纓会』という演目があります。話は二千六百年前のこと。楚の荘王(紀元前六一三~前五九一年在位)がある反乱を平定したあと、夜宴を張り、臣下の褒賞をしようとしました。荘王の寵妃が王の命令で将軍たちに酒を注いでいると、明りが突然風に吹き消され、暗闇の中で酒の力を借りた若き将軍唐狡が妃にいたずらをしました。妃は彼の兜の飾り房を引きちぎって荘王に訴えたところ、荘王は明りをつける前に兜に飾り房
Author: 華梅 Year 1997 Issue 2 PDF HTML
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14. おしゃれは足元から
才華溢れる張良は、若い時から常に大業をなし遂げたいと考えていました。ある老人が彼を試してみようと、自分の靴を三度橋の下に落としたところ、張良は三度ともそれを拾って恭しくその老人に履かしてあげたそうです。通常、使用人や後輩でなければ人に靴を履かせたりしませんから、張良が老人の靴を拾ってきたのはなかなか常人には真似できないことです。老人は彼の誠実さや礼儀正しさに感心して、座右に置いて大切にして来た兵法
Author: 華梅 Year 1997 Issue 3 PDF HTML
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15. 足にも衣あり―靴下の昔と今
古書『左子伝』に、紀元前六世紀のある出来事が書いてあります。衛国の主君が宴席を設け臣下を呼び集めましたが、正に宴たけなわの時、褚師声子が靴下を履いたまま入って来て席につきました。主君がこれを見て失礼千万な振る舞いだと、烈火の如く怒ったので、声子は慌てて足に潰瘍ができたので、ご主君が見たら気分を悪くされるのではないかと心配したからだと、弁明しましたが、主君がこれを聞いていっそう立腹したので、声子は忽
Author: 華梅 Year 1997 Issue 4 PDF HTML
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16. 子供服の時代色·民族色
春秋時代の末ごろ、楚国の隠君子老莱子(約紀元前五三〇~紀元前四五〇年)が七十歳になった時、わざと赤ん坊風の五色の服を着てでんでん太鼓をまわし、よちよち歩きで無邪気に甘え、両親を笑わせ大いに喜ばせました。以来、後世の人々は老莱子を親孝行の手本として崇めてきたのです。古くから子供の服は色鮮やかに飾られ、そのため「彩衣」とは子供服のことを指し、もともとは「綵」と書かれています。清末の光緒帝が師事していた
Author: 華梅 Year 1997 Issue 5 PDF HTML
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17. ウェディングドレスの昔と今
二百余年前の大ロマン『紅楼夢』の一シーンです。主人公の賈宝玉が数々の婚礼の儀式を済ませていよいよ新妻と二人だけで部屋に入り、花嫁の被っている紅いベールを取って初めて分かったのですが、これは自分の好きな林黛玉ではなく、一族の老人が指定した薛宝釵でした。しかし後悔してももう間に合いません。昔の中国では、婚姻は親の判断で決まり、時には、ベールを取ってはじめて新郎新婦は自分の結婚相手が分かるのです。結婚は
Author: 華梅 Year 1997 Issue 6 PDF HTML
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18. 肩をおおう「雲肩」の雲
蔡文姫は中国古代の有名な才女で、後漢時代の文学者であり書家でもある蔡邕(一三二~一九二年)の娘ですが、漢末の激動の時代に塞外(北方騎馬民族の地)で十二年も流転の生活を送りました。曹操は蔡邕に後つぎがいないのをかわいそうに思い、大金を払って匈奴の左賢王から彼女を買い戻し、董祀と再婚させましたが、彼女は其の『悲憤詩』で自分自身の悲惨な運命と戦乱の世の現実を描き、その悲しい物語は人々の心を打ちました。長
Author: 華梅 Year 1997 Issue 7 PDF HTML
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19. いにしえのカジュアルウェア―背子
宋の徽宗趙佶(一一〇一~一一二五年在位)は絵画に長じ、多くの作品を残しています。そのなかに『聴琴図』という絵があって、一人が琴を弾き、もう一人がそれを聞いているのですが、後世の人はそれが徽宗の自画像で、琴を弾いているのが徽宗本人であると主張してきました。この絵の徽宗は普段着の上に向かいえりの長い服を着ており、とてもリラックスして見えます。河南省禹県白沙の宋代の墳墓から出土した壁画に、化粧中の女優た
Author: 華梅 Year 1997 Issue 8 PDF HTML
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20. 兜(かぶと)と甲(よろい)―軍装の変遷
蚩尤は大昔の中国神話に登場した戦争の神でした。彼と彼の八十一人の兄弟は青銅の頭と鉄の額を持ち、いつも砂と石を食べていたと言われます。伝説によると、彼は青銅で兵器を鋳造した最初の人物で、青銅の頭と鉄の額とはもしかすると彼らが被っていた金属の兜のことで、砂や石を食べるというのは青銅の精錬作業の詩的な描写かもしれません。蚩尤はもう一人の部族の酋長黄帝と涿鹿(現在の河北省内)で戦をしましたが、黄帝の部下に
Author: 華梅 Year 1997 Issue 9 PDF HTML