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Your search : [ author:張 正] Total 694 Search Results,Processed in 0.146 second(s)
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11. 日中貿易を志す日本業界の方向
(一)わたしたち日中貿易促進会友好代表団は中国国際貿易促進委員会のお招きにより、去る一月八日、中華人民共和国を訪問しました。わたしどもは、約二週間北京に滞在し、中国国際貿易促進委員会の南漢宸主席および張化東副主席をはじめ、日中関係を担当しておられる各方面の責任者の方がたにお目にかかり、本年日中貿易をさらに発展させてゆくという立場から、これに重大な関係をもっている諸問題について、率直な意見の交換をお
Author: 隅井正典 Year 1966 Issue 4 PDF HTML
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12. パリ·コンミューンの原則を守るために奮闘しよう!
いまから百年まえ、パリのプロレタリア階級が暴力によってブルジョア階級の国家機構をうちくだき、史上最初のプロレタリア階級独裁という偉大な試みをおこなった。七十二日間持続されたパリ·コンミューンは種々の原因で失敗したが、それは世界のプロレタリア階級に最も貴重な歴史的経験と教訓をのこした。
Author: 華正茂 Year 1971 Issue 3 PDF HTML
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13. 上海舞劇団の友人とすごした日び
中国から舞劇団が来る!日中友好と両国の国交回復を願う多くの日本の人びとはその日を指おりかぞえて待った。やがて七月十日、二〇八名からなる上海舞劇団員は薄いグレーの服に身をつつみ、さっそうと羽田空港におりたった。それから三十数日、日本の労働者、農民、市民、学生、文芸、政、財各界の多くの人びとは、上海舞劇団の活動に目をみはり、やがて大波のような感動をひろげていった。上海舞踊学校が江青女史の指導によりバレ
Author: 清水正夫 Year 1972 Issue 11 PDF HTML
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14. 漁師と暮らした八年間
農村に住みつくわたしはプロレタリア文化大革命の前に大学にあがって学んだ。一九六四年、水産学院を卒業すると、上海市嘉定県の水産養殖場に配属されて、そこの技術員になった。就職先が養殖場にきまった時はほんとうにうれしかった。しっかりやろうとばかり、参考書と網をかかえて農村にやってきたのだ。ところが、来て見ると、この養殖場はできたばかりで総勢わずか六人、それも六、七十歳の年かさの人が三人も入っていた。設備
Author: 胡守正 Year 1973 Issue 4 PDF HTML
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15. 震災2年後の開灤炭鉱
「開灤は地上から消えうせた」「二十年たっても採炭できないだろう」―一九七六年七月二十八日、中国の唐山―豊南一帯に大地震が起って、「中国第二の石炭都市」開灤が大破壊をこうむったとき、このように「予言」した人がいたものだった。開灤はほんとうに地上から消えうせてしまっただろうか、ほんとうに二十年後も採炭不能の状態になっているだろうか?英雄的な開灤炭鉱の労働者は、自身の行動でもって、こうした疑問にめいりょ
Author: 李正傑 Year 1978 Issue 11 PDF HTML
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16. 周恩来総理と中国の水利建設
「人民のために害を取り除き、福をもたらそう」一九四九年、中央人民政府が成立して二カ月たらずの十一月、周総理は解放区水利合同会議の代表と親しく会見した。残敵を追って解放戦争はなおつづいており、新中国は草創のさなかにあったときである。この会見にさいし、総理は「禹(う)(夏(か)の始祖)は治水に精魂を打ち込み、わが家の前を三たび通りかかったが、ついぞ入って休もうともしなかった」という伝説を引用し、人民の
Author: 銭正英 Year 1979 Issue 5 PDF HTML
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17. 上海の租界を脱して解放区へ
わたしは若いとき、革命への道を選びました。あの当時、親戚や友人たちにはその行動が不可解に思われたようです。このいきさつを話すには、どうしてもわたしの幼年時代と家庭のことからはじめなければならないでしょう。女性技師を夢みてわたしの父は封建的な大家庭のなかで育ちました。一九二三年、わたしが生まれて間もなく、父親はアメリカのコーネル大学からマスター号をもらって帰国してきました。父は渡米する前、国内で交通
Author: 銭正英 Year 1979 Issue 11 PDF HTML
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18. 「枇杷図」清·虚谷 作
虚谷の「枇杷図」は、紙に描かれた彩色画であって、縦四四·三センチ、横九〇·六センチある。虚谷は、清の道光四年(一八二四年)に生まれ、光緒二十二年(一八九六年)に歿した。本姓は朱、名は、虚白。原籍は新安(いまの安徽省歙県)だが、広陵(いまの江蘇省揚州)に寓居していた。虚谷は、清朝末期に花鳥画の面で優れた作品を残した数人の画家のうちの一人である。虚谷は、かつて三十歳のころ、清朝の軍隊で参軍の職につき、
Author: 聶崇正 Year 1980 Issue 11 PDF HTML
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19. 中日文化交流のいっそうの発展を
このたび私は、中国政府の文化代表団を率いて日本を訪問しますが、その前に、『人民中国』を通じて、広範な日本の読者の皆様にご挨拶を送りたいと思います。一九九九年五月、私は中国の文化部長として日本を訪問しました。日本訪問中に私は、当時の小渕恵三首相と会談しました。不幸にも小渕首相はこの世を去りましたが、このときの友好的な話し合いや、二十一世紀へ向けて中日両国の友好関係と文化交流を発展させたいという小渕首
Author: 孫家正 Year 2002 Issue 4 PDF HTML
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20. 人に「人縁」あり、国に「国縁」あり
Author: 趙啓正=文 Year 2009 Issue 1 PDF HTML