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Your search : [ author:写真·文魯忠民] Total 91 Search Results,Processed in 0.106 second(s)
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71. 火焔駒
この物語は、北方のさまざまな地方劇に採用されているが、中でも陜西省、山西省一帯の地方劇「秦腔」のものが有名である。宋代(960~1279年)の兵部尚書であった李綬は奸臣·王強に陥れられ、投獄された。李綬の次男·彦貴は、早くから黄璋の娘·黄桂英と結婚の約束をしていた。李家が事件に巻き込まれたことを知った黄璋は、なんとかして婚約の解消をはかろうとした。そして、小間使いを殺害し、彦貴に金目当ての殺人とい
Author: 写真·文 魯忠民 Year 2007 Issue 3 PDF HTML
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72. 『打金枝』 皇帝、皇女を懲らしめる
戯曲『打金枝(金枝は皇女を指し、皇女を殴るの意)』は、中国の古典小説『隋唐演義』の第99回を題材にしたものである。中でも晋劇(山西省の地方劇)が最もよく知られている。唐朝(618~907年)の功臣郭子儀の第6子郭曖は、昇平皇女を妻に娶り、代宗の娘婿となった。昇平皇女は自分の家柄を鼻にかけ、何かにつけて宮廷の決まりごとや君臣の大礼を持ち出し、夫をがんじがらめにした。郭子儀の80歳のお祝いに、子供たち
Author: 写真·文 魯忠民 Year 2007 Issue 4 PDF HTML
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73. 天水関
『天水関』はまたの名を『収姜維』と呼ばれ、古典小説『三国志演義』から題材を取った戯曲である。老生(京劇で付け髭をした宰相·忠臣などに扮する中年以上の役)による歌を主とし、かつて北方のさまざまな地方劇で演じられた。河北省蔚県の切り紙は戯曲の登場人物を得意とし、その種類は千にも及ぶ。三国(220~280年)の時、諸葛亮は兵を出し、北伐を開始。魏を攻めんと祁山に出陣した。まず安定、安南の両城を攻め落とし
Author: 写真·文 魯忠民 Year 2007 Issue 5 PDF HTML
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74. 『二進宮』再び宮殿に入る
『二進宮』は、中国各地の演劇の伝統的な演目。「生(男役)」「旦(女役)」「浄(敵役)」で演じられる。物語の題材は明代(1368~1644年)の宮廷で起きた権力闘争。1572年、明の穆宗が崩御したあと、皇太子はまだ幼かったため、穆宗の皇后だった李艶妃が「垂簾の政治」を行った。このとき、李艶妃の父親の太師·李良が帝位を奪おうとたくらんだ。だまされた李艶妃は、帝位を父親に譲ろうとした。忠臣の定国公·徐延
Author: 写真·文 魯忠民 Year 2007 Issue 6 PDF HTML
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75. 『琵琶記』
古典的名作である戯曲『琵琶記』は、漢代の書生蔡邕(字は伯喈)と趙五娘の常ならぬ人生の悲哀の物語。元代(1206~1368年)の高明(字は則誠)の作品である。後漢(25~220年)の時代、陳留県の秀才·蔡伯喈は、結婚したばかりの妻·趙五娘と両親を残して単身で上京し、科挙の試験を受けた。合格して状元となった伯喈は牛丞相に見込まれ、強引に入り婿にさせられてしまう。一方、陳留県では何年も続く災害や凶作にあ
Author: 写真·文 魯忠民 Year 2007 Issue 7 PDF HTML
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76. 『斬黄袍』
『斬黄袍』は京劇の名作であり、伝統的な演目として長い間上演されている。五代十国(907~960年)、天下は大いに乱れていた。趙匡胤、鄭子明と知り合った柴栄は、『三国志演義』の「桃園結義」の故事にならって天下を取ろうと謀り、3人で義兄弟の契りを結んだ。のちに柴栄は後周(951~960年)の皇帝の位についたが、わずか6年で世を去った。7歳の息子·宗訓が即位した。鄭子明らは趙匡胤を皇位につかせようと、趙
Author: 写真·文 魯忠民 Year 2007 Issue 8 PDF HTML
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77. 『苦肉計』
『苦肉計(苦肉の策)』は、古典小説『三国演義』の第46回からの出典である。曹操が80万の大軍を率いて南下し、呉を攻めた。多勢に無勢の不利な形勢において、東呉の都督·周瑜は曹操の軍を破るために火攻めを用いることにした。しかし寝返るふりを装って曹操の陣営に赴く者はなく、周瑜が本陣で途方にくれていると、老将黄蓋がやってきて、自分がその役をかってでた。大喜びの周瑜は、ひそかに苦肉の策を定めた。翌日、周瑜が
Author: 写真·文 魯忠民 Year 2007 Issue 9 PDF HTML
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78. 『白珠関』
ここ近年は上演されることもなくなったが、『白珠関』は時代小説『説唐後伝』をもとにした伝統劇の演目である。『白良関』とも呼ばれる。唐の貞観3年(629年)、北方民族のある国が唐王朝に反乱を起こしたため、唐の太宗·李世民(在位626~649年)は自ら20万の大軍を率いて討伐に赴いた。命令を受けて白珠関を攻めた大将軍·尉遅恭は、第一陣でその関所を守る総兵·劉国貞を打ち破った。翌日、劉の息子·劉宝林が戦い
Author: 写真·文 魯忠民 Year 2007 Issue 10 PDF HTML
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79. 『西廂記』
唐の貞元(785~805年)年間、前王朝の崔相国が病で亡くなった。妻の崔夫人は娘の鶯鶯、侍女の紅娘一行30人あまりを連れ、相国の棺を埋葬するため河北に向かう。途中、しばらく山西の普救寺に逗留した。同じころ、科挙試験のために長安を目指してこの地に立ち寄った河南洛陽の書生·張珙が、普救寺のあたりを散策しているときに鶯鶯と出会い、恋に落ちた。ある晩、張は壁を隔てて声高らかに詩を詠んだ。鶯鶯もたちまちこれ
Author: 写真·文 魯忠民 Year 2007 Issue 11 PDF HTML
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80. 『三英戦呂布』
『三英戦呂布(三英雄が呂布と戦う)』は、古典小説『三国演義』の第5回からの出典で、伝統戯曲『虎牢関』の中の一節である。元代の鄭徳輝によって書かれた雑劇『虎牢関三英戦呂布』のほか、漢劇、川劇、豫劇および秦腔(それぞれ湖北、四川、河南、陜西地域の地方劇)にも登場する。曹操は国を奪った董卓を恨み、檄を飛ばして、董卓征討を諸侯に呼びかけた。これに呼応して兵を起こした十八鎮の諸侯は、袁紹を連合軍の盟主に、も
Author: 写真·文 魯忠民 Year 2007 Issue 12 PDF HTML