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Your search : [ author:写真·文 劉世昭] Total 783 Search Results,Processed in 0.087 second(s)
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711. ナンバーワンじゃなきゃ意味がない
六歳から水泳を始めた。体育学校で専門に水泳を学んだあと、トライアスロンの選手になった。アジアの大会に参加したときのこと。水泳、自転車の二種目が終わり、最後のランニングの時点で、先頭は一緒に参加していたチームメイト。彼は千メートル先を走っていたが、あきらめることなく、最後の力をふりしぼった。そしてとうとう追いつき、ゴール間際で「ファイト」と小さく声をかけながら追い抜いた。二着になったチームメイトは、
Author: 楊振生=写真·文 Year 2007 Issue 6 PDF HTML
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712. 『二進宮』再び宮殿に入る
『二進宮』は、中国各地の演劇の伝統的な演目。「生(男役)」「旦(女役)」「浄(敵役)」で演じられる。物語の題材は明代(1368~1644年)の宮廷で起きた権力闘争。1572年、明の穆宗が崩御したあと、皇太子はまだ幼かったため、穆宗の皇后だった李艶妃が「垂簾の政治」を行った。このとき、李艶妃の父親の太師·李良が帝位を奪おうとたくらんだ。だまされた李艶妃は、帝位を父親に譲ろうとした。忠臣の定国公·徐延
Author: 写真·文 魯忠民 Year 2007 Issue 6 PDF HTML
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713. 子どもたちはあたらしい活力の源
長い間ハルビンで仕事をしていたため、東北なまりが少しある。性格も、東北人のようにさっぱりとしていて大らかだ。一九九〇年、癌を患った。「もし癌にかからなければ、定年までずっとハルビンの幼稚園で先生をしていたことでしょう」泣く泣く好きな仕事を辞め、故郷へ戻って休養することになった。そして前向きに治療に励み、体を鍛えた。そのうえ、夫や娘と一緒に地元テレビ局の家族で参加するかくし芸番組に出演。みごと総合賞
Author: 楊振生=写真·文 Year 2007 Issue 7 PDF HTML
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714. 『琵琶記』
古典的名作である戯曲『琵琶記』は、漢代の書生蔡邕(字は伯喈)と趙五娘の常ならぬ人生の悲哀の物語。元代(1206~1368年)の高明(字は則誠)の作品である。後漢(25~220年)の時代、陳留県の秀才·蔡伯喈は、結婚したばかりの妻·趙五娘と両親を残して単身で上京し、科挙の試験を受けた。合格して状元となった伯喈は牛丞相に見込まれ、強引に入り婿にさせられてしまう。一方、陳留県では何年も続く災害や凶作にあ
Author: 写真·文 魯忠民 Year 2007 Issue 7 PDF HTML
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715. オランダ語からウルドゥー語へ
大学ではオランダ語を勉強していたが、就職先のラジオ局ではウルドゥー語部に配属された。もちろん、ウルドゥー語については何の知識もない。そこで、最初の一年に与えられた任務は、ウルドゥー語を学ぶことだった。職場がネイティブの先生をつけてくれたおかげで、生きたウルドゥー語を学ぶことができている。また、もともと負けず嫌いの性格もあって、上達は速い。大学時代に聴いた曲で、旋律が美しく忘れられない歌があった。ウ
Author: 楊振生=写真·文 Year 2007 Issue 8 PDF HTML
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716. 『斬黄袍』
『斬黄袍』は京劇の名作であり、伝統的な演目として長い間上演されている。五代十国(907~960年)、天下は大いに乱れていた。趙匡胤、鄭子明と知り合った柴栄は、『三国志演義』の「桃園結義」の故事にならって天下を取ろうと謀り、3人で義兄弟の契りを結んだ。のちに柴栄は後周(951~960年)の皇帝の位についたが、わずか6年で世を去った。7歳の息子·宗訓が即位した。鄭子明らは趙匡胤を皇位につかせようと、趙
Author: 写真·文 魯忠民 Year 2007 Issue 8 PDF HTML
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717. オリンピックに向け北京の道路を美しく
始めは、道路清掃の仕事なんてとても簡単だと思っていた。しかし実際は違った。「初めてゴミ箱を背負い、ホウキを手にして仕事をしたとき、ゴミ箱がうまく扱えず、背負ったと思ったらずり落ちてしまいました。ベテラン作業員に教えてもらって、ようやく要領をつかんだのです。一日仕事をしたら、腕も足もクタクタで痛かった」所属する会社は、二〇〇八年のオリンピックを迎えるに当たって、道路清掃作業の全面的な機械化を実現する
Author: 楊振生=写真·文 Year 2007 Issue 9 PDF HTML
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718. 『苦肉計』
『苦肉計(苦肉の策)』は、古典小説『三国演義』の第46回からの出典である。曹操が80万の大軍を率いて南下し、呉を攻めた。多勢に無勢の不利な形勢において、東呉の都督·周瑜は曹操の軍を破るために火攻めを用いることにした。しかし寝返るふりを装って曹操の陣営に赴く者はなく、周瑜が本陣で途方にくれていると、老将黄蓋がやってきて、自分がその役をかってでた。大喜びの周瑜は、ひそかに苦肉の策を定めた。翌日、周瑜が
Author: 写真·文 魯忠民 Year 2007 Issue 9 PDF HTML
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719. 天安門前で車の流れをスムーズに
力強い話し方で、一見、厳しそうな印象を与えるが、それは交通警察という職業の性(さが)だという。特に、北京のメーンストリートである長安街を守っているとなるとなおさらだ。休日には、国内外からたくさんの観光客がやって来るため、彼らの記念写真に一緒に収まることもしばしば。自分の仕事に誇りを持つ一方、その責任の重さを改めて感じる。交通量の多い長安街で、「停止」「直進」などの手信号を一時間に三百回以上繰り返す
Author: 楊振生=写真·文 Year 2007 Issue 10 PDF HTML
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720. 『白珠関』
ここ近年は上演されることもなくなったが、『白珠関』は時代小説『説唐後伝』をもとにした伝統劇の演目である。『白良関』とも呼ばれる。唐の貞観3年(629年)、北方民族のある国が唐王朝に反乱を起こしたため、唐の太宗·李世民(在位626~649年)は自ら20万の大軍を率いて討伐に赴いた。命令を受けて白珠関を攻めた大将軍·尉遅恭は、第一陣でその関所を守る総兵·劉国貞を打ち破った。翌日、劉の息子·劉宝林が戦い
Author: 写真·文 魯忠民 Year 2007 Issue 10 PDF HTML