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Your search : [ author:西園寺公一] Total 55 Search Results,Processed in 0.109 second(s)
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51. 中国 東北地方の旅から
平頂山殉難同胞記念碑日本帝国主義が中国の東北を荒しまわっていた頃の撫順炭鉱は見るも無残な姿だったという。解放されてからの中国の計画的な、見るからに行儀のいい、能率の高い採炭のやりかたとは異なり、その頃は掘り易いところから手当り次第に掘りまくったのだから、山は荒れ、あらゆる事故が起り、そのたびに多くの人命が失われたのも当りまえだ。「日本侵略者が三十二年間に、この紅衛露天炭鉱から掠奪した石炭は八六〇〇
Author: 西園寺公一 Year 1972 Issue 1 PDF HTML
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52. 敬愛する周恩来総理の逝去一周年を北京に迎えて
旧臘二十四日、中国民航機で羽田を立ち、息子の一晃と二人で北京へ向かった。今度の訪中は三週足らずの短期間ではあったが、ちょうど中国は王洪文·張春橋·江青·姚文元の「四人帮(スーレンパン)」、すなわち四人組徒党を粉砕した慶びに中国の友人たちが意気軒昂としている時期であり、敬愛する周恩来総理の逝去一周年にさいして、この立派な指導者を中国の人々が挙って衷心から追慕し、遺徳を偲ぶ時期であったので、わたしの受
Author: 西園寺公一 Year 1977 Issue 4 PDF HTML
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53. 宋慶齢さんの葬儀に参列して
宋慶齢さんの病いが重いという廖承志さんからの電報を受け取ったのが五月二十二日。取るものも取りあえず手続きをとり、二十五日に北京へ立つ。友好賓館に旅装を解くと、間もなく廖承志さんが迎えに見え、直ちに什刹海の近くの宋慶齢さんのお宅へ急ぐ。宋慶齢さんは二階の静かな病室に横たわっておられ、表情は穏やかで、懐しい福よかなお顔は安らかに見えたが、なにしろ三十九度から四十度の高熱であり、九十歳の高齢なので、一刻
Author: 西園寺公一 Year 1981 Issue 9 PDF HTML
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54. 若もの万才!
八月三一日(火)丸一週間の北京での行事を大成功裏におわり「中日青年友好大聯歓」の日本の青年·学生は三班にわかれ北京をたっていった。一班は東北各地、一班は西安·延安など、それからもう一班は長沙·南昌·武漢などをそれぞれ訪れて、各地方の若ものたちとの友好交流をおこなうのである。一週間まえに着いたときの北京駅での熱情のこもった歓迎の表情にあっとうされたのを想いだしながら、それに輪をかけた今日の午後の北京
Author: 西園寺公一(カツトと題字は筆者) Year 1965 Issue 11 PDF HTML
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55. もり上がった日中友好ムード
「友誼が第一、試合は第二」名古屋で開催された第三十一回世界卓球選手権大会に中国が参加するまでの道は、けっして平坦なものではなかった。主催国日本が会長の地位にあった「アジア卓連」には蔣介石一味が加盟しており、そのために中国は脱退するという経緯があったからである。「二つの中国」あるいは「一つの中国と一つの台湾」を認める日本卓球協会の主催する世界選手権大会に参加することは、日中友好の不可欠の基礎である「
Author: 中国卓球代表団歓迎委員会委員長·日本中国文化交流協会常任理事 西園寺公一 Year 1971 Issue 7 PDF HTML