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Your search : [ author:写真·文 周衛軍] Total 538 Search Results,Processed in 0.091 second(s)
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41. まず「侵略者」として登場開放政策で往来日常化
かつて中国人は、「世界」というものについて何も知らず、その脳中には「天下」という概念しかなかった。天下の中心に中国があり、周辺に「蛮」「夷」などと呼ばれる小国があるのみ。天下のほとんどは中国が占め、「蛮」「夷」などはわずか1、2割に過ぎない、と信じていた。だが、「聖なる天朝の国」という独善的な幻想は、1840年に起こったアヘン戦争によってみじんに粉砕され、少数の先覚者が5大洲3大洋に目を向けるよう
Author: 構成·魯忠民 周衛軍 Year 2000 Issue 8 PDF HTML
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42. 娯楽にも儒教思想の影響七連休で観光ブーム爆発
中国人の余暇の過ごし方は、数千年にわたる農耕社会のゆるやかなテンポによって、独特のものが形成されてきた。そこには、儒教思想の濃厚な影響と、長い文化の蓄積が見られる。気候や地相の違いによる地方差はあったものの、基本的には家族を中心とし、生まれ育った土地に執着し、遠出するようなことはまず考えなかった。
Author: 構成·魯忠民 周衛軍 Year 2000 Issue 9 PDF HTML
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44. 破壊と引き替えに現代化 調和のとれた発展目ざす
中国は昔から災害の多い国だったが、とくに20世紀は人間と自然との戦いに明け暮れた。この100年で人口が4億から12億以上に激増したのと歩調を合わせるかのように、水害、旱魃(かんばつ)、地震、地滑り、土石流、砂塵嵐、生物種の減少、土壌の退化、砂漠化などの災害が増加した。この20年を見ても、急激な近代化に伴って環境問題がますます突出してきた。人々は、自然災害との戦いを続ける一方で、自らが生み出した生態
Author: 構成·魯忠民 周衛軍 Year 2000 Issue 11 PDF HTML
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45. 幻想と蔑視と畏怖と改革開放でベール脱ぐ
「人は自知の明あることを貴しとす」と言われる。この百年、中国は世界に目を向け、世界もまた中国に注目してきた。外からの眼差しによって中国人は自らの短所を知り、実践によって変革を進めた。中国社会の変化とともに、中国を見る世界の目も変わってきた。13世紀に中国を訪れたマルコポーロをはじめ、当時西洋人が残した中国に関する記録は、彼らの幻想や憧憬によって脚色されたファンタジーでしかなかった。そうした状況は1
Author: 構成·魯忠民 周衛軍 Year 2000 Issue 12 PDF HTML
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46. 中国モダンアートの旗手·徐氷
徐氷は一九八八年、作品『析世鑒』(せきせいかん)(一般的には「天書」と呼ばれる)を発表。人々に大きなショックを与え、停滞していた中国モダンアート界を復活させた。そしてその代表的人物になった。これを「徐氷現象」と呼んでも過言ではないと思う。彼の芸術家としての魅力はどこにあるのか。徐氷は今、何を思考しているのか……。インタビューは、文字をめぐる話題を中心に展開した。文字は、彼の創作の核心であり、源であ
Author: 文·周衛軍 写真提供·徐氷 Year 2001 Issue 2 PDF HTML
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47. 食文化の旅 秦淮河風味の小吃
南京市内を流れる秦淮河は、遠く秦の時代に開削された運河。江南の貴族文化が欄熟した六朝の時代(三世紀初め~六世紀終わり)から、その両岸に高殿や酒楼が軒を並べ、明清の時代(十四世紀半ば~二十世紀初め)になってさらに栄えた。いまも南京で指折りの繁華街として、正月や節句には三十万入からの入出で賑わう。中でも夫子廟地区は、食文化の中心ともいうべきところρ古い歴史を誇る料亭、茶荘、酒楼、小吃(一品料理)店など
Author: 写真·文狄華 Year 1992 Issue 1 PDF HTML
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48. 揚州の三大料理
かつて日本の遣唐使が上陸した揚州。鑑真和上の生地であり、若き日の和上が修行した大明寺のある揚州長江に、揚子江という別名を与えるもとになった揚州。.「故人西のかた黄鶴楼を辞し、煙花三月揚州。に下る」という李白の詩心有名だ。揚州は遠く紀元前五世紀に呉王夫差が築いた町。唐代には江南随一の大都会として栄え、家々に鶴が飼われていたという。「腰に十万貫を纏い鶴に騎って揚州に下る」という詩には、大金を持った男が
Author: 写真·文秋華 Year 1992 Issue 3 PDF HTML
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49. 北京で味わえる地方料理東坡肉(浙江料理)
浙江省の料理としてよく知られているのが、この東城肉です。すでに900年以一f”の歴史をもつ名物料理。宋代の大文豪、蘇東披に由来する料理でもあります。左遷させられて杭州の地方官となった蘇東士皮は、西湖にf.手を築いて農地にかんがいし、人々に幸福をもたらしました。ある日、豚肉と紹興酒を贈られた東城は、家人にこれを料理して労働者に届けるよう言いつけます。家人は肉と酒を一緒に料理するものだと思って作ったと
Author: 写真·文 狄華 Year 1992 Issue 6 PDF HTML
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50. 武昌の魚料理
誰でもょく知っている武昌魚。毛沢東が「長沙の水を飲み、武昌の魚を食べる」と詩に詠んだところから名を馳せるようになった。誰もが一度は食べてみたいと思う魚だ。武昌魚の名は千七百年以上も前の古書にも載っている。昔も今も、多くの詩人墨客が詩に詠んでほめたたえている魚である。学名は妨魚(トガリヒラウォ)。湖北省武昌の梁子湖でとれる。この湖と長江の間に短い川があるが、毎年秋になると、湖の魚は湖水とともに長江に
Author: 写真·文 狄華 Year 1992 Issue 7 PDF HTML