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Your search : [ author:文·写真 沈延太 王長青] Total 745 Search Results,Processed in 0.087 second(s)
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331. 神と人に捧げられる「皮影戯」
スクリーンに映し出された、まるで命を吹き込められたかのように動く、色鮮やかで繊細な影絵人形。中国では影絵芝居のことを「皮影戯」と呼び、2000年前の漢代にはその原型があったといわれている。長い歴史の中で伝わってきた民間芸術も、農村のライフスタイルの変化や、テレビの普及などによって、多くの地域で皮影戯が行われなくなった。そんな中で甘粛省環県の農村では、いまでに40以上の皮影戯一座が活躍し、村人の生活
Author: 魯忠民=文·写真 Year 2006 Issue 6 PDF HTML
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332. 石に刻まれた膨大な数のチベット大蔵経
チベット語で「草地にある寺」を意味するバントゥ(棒托)寺は、世界唯一といわれる、五十万枚の石板に刻まれたチベット語の『大蔵経』と、四十もの仏塔でその名を知られている。高さ九メートル以上に積み重ねられた『大蔵経』の「山」は、五百九十八平方メートルの面積を占める。
Author: 劉世昭=文·写真 Year 2006 Issue 6 PDF HTML
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333. 保護される伝統芸能や技術
国民の文化遺産に対する保護意識を高め、保護活動を全面的に推し進めるために、中国政府は今年から、毎年の六月第二土曜日を中国の「文化遺産の日」にすると決定した。 これに先立ち文化部は、無形文化遺産保護の成果を披露する展覧会と演芸の夕べを開催。数千年にわたって伝承されてきた数々の文化遺産が全国から集結し、来場者の目を楽しませた。「世界無形文化遺産」無形文化遺産保護の成果を披露する展覧会は、中国の伝統祭日
Author: 魯忠民=文·写真 Year 2006 Issue 7 PDF HTML
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334. 自然と融合した気品ある皇室庭園
一七〇一年の秋、清の康熈帝(在位一六六一~一七二二年)は、文官と武官を率いて、二十四度目の北部への巡視に出かけ、木蘭猟場で狩猟を行った。 熱河の宿営に着いたとき、奇異な峰がそびえ立った、すばらしい景観が目に入った。そして康煕帝は、この山と水に囲まれ、広々とした土地に、行宮を建設するよう直隷(河北省の旧称)総督に動じたのだった。 それ以来、八十九年の間、わずか二十数戸しかなかった小さな山村は、世界最
Author: 劉世昭=文·写真 Year 2006 Issue 7 PDF HTML
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335. 自然が描き出した彩色画トラバーチンと苔のハーモニー
天地開闢の時、卡(か)竜(りゅう)と九寨、黄竜の三姉妹がこの世にやって来た。そして彼女たちが行くところで万物が生まれ育ったという伝説が、この土地に伝わっている。 黒水のある谷に着いた卡竜が、緑のスカートを広げると、山一面に木々が生い茂った。そして、頭に挿していた翡翠の簪(かんぎし)でいくつかの泉を描き、真珠のネックレスを撒いて、色とりどりの池に変えたという。絵巻物の終着点車で黒水県城(県政府の所在
Author: 劉世昭=文·写真 Year 2006 Issue 7 PDF HTML
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336. 歴史を忘れず、友好を続けよう
日本の敗戦後、中国·東北地区に取り残された百万以上の在留日本人が、遼寧省の葫蘆島から帰国するという大事業が始まって以来、今年で六十年。本誌は昨年八月号で、その詳細を特集し、大きな反響を呼んだ。 この六月二十五日、歴史の舞台となった葫蘆島に、中日の関係者約四百人が集まり、この「大遣返(大送還)」を記念し、中日関係を展望するフォーラムを開催した。
Author: 銭海澎=文·写真 Year 2006 Issue 8 PDF HTML
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337. 暮らしから生まれる豊かな造形
陜北(陜西省の北部)に位置する延川県は、県境を流れる黄河が68キロにもおよび、黄河文明が凝縮した地である。民間芸術でもよく知られる延川は、長い歴史と、豊かな内容の独特な切り絵と、布を貼り合わせて作った布絵によって、「民間芸術の郷」と名づけられた。
Author: 魯忠民=文·写真 Year 2006 Issue 8 PDF HTML
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338. 「山神」に守られる「白馬人」の仮面踊り
白馬チベット族の民族学的分類については、人類学者の間に異なる意見があった。一九五〇年代の初め、公式にはチベット族の一脈とされたが、生活習慣、信仰、風俗の面でチベット族と異なることから、白馬チベット族と呼ばれるようになった。彼らは自らのことを「白馬人」と呼んでいる。チベット族兵士の末裔二日間の雨のあと、九寨溝の県城を離れ、勿角郷の下勿角村へ向かった。車で南へ約五十キロを走ったあたりから、幅わずか二メ
Author: 劉世昭=文·写真 Year 2006 Issue 8 PDF HTML
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339. 民族融合を促進したチベット仏教寺院
避暑山荘の東北にある山の麓には、12の皇室の寺院がある。その中の8つは、清朝政府が少数民族を支配するために制定した法規『欽定理藩院則列』により清朝政府が管理していたため、「外八廟」と呼ばれている。ここは、清朝の皇帝が承徳に滞在したときに政治を行った場所で、それぞれの寺院の建造は、当時の政治と密接に関係している。二つの様式の寺院康煕五十二年(一七一三年)、蒙古の王公たちは、康煕帝の六十歳の誕生日を祝
Author: 劉世昭=文·写真 Year 2006 Issue 9 PDF HTML
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340. 明代の城壁に囲まれた辺境要塞の地スウンチュ
唐の太宗(六二七~六四九年)時代、唐王朝と青海·チベット高原に存在した吐蕃(とばん)王朝は、スウンチュ(松潘、当時は松州と呼ばれていた)で激しく戦った。そして吐蕃王朝の首領ソンツェンガンポは、唐に使者を遣わして和親を願い出、唐の太宗は、文成公主をソンツェンガンポに嫁がせた。その後、スウンチュは漢民族とチベット族をつなげる貿易集散地になり、にぎやかで豊かな町になっていった。明代の城門九寨溝から南へ伸
Author: 劉世昭=文·写真 Year 2006 Issue 9 PDF HTML