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Your search : [ author:楊振生=写真·文] Total 48 Search Results,Processed in 0.096 second(s)
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21. 家族で支えあう慎ましくも温かな毎日
内気で真面目な働き者。生活が苦しくなるたびに、出稼ぎでしのいできた。故郷にいたある日、料理に使う塩がきれた。塩は一袋二元四角(約三十円)するが、手元には七角(約十円)しかない。恥ずかしくて、息子に買いに行かせた。息子は塩を買って帰ってきたが、「父ちゃん、店のおばちゃんがもうこんな風には売らないって」とくやしそうに言った。今でもこの出来事は忘れられない。現在は、北京の定年退職した元幹部の家でハウスキ
Author: 楊振生=写真·文 Year 2005 Issue 10 PDF HTML
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22. ボーイの助手から最年少の総支配人に
崔さんが就職したとき、中国はちょうど改革開放の初期だった。シェラトングループは北京初の合弁の五つ星ホテル「北京シェラトン長城ホテル」をオープン。崔さんはボーイの助手から始まって、一年後にはチームリーダーに昇格した。シェラトンホテルでの仕事経験は、貴重な財産となっている。ある時、外国人のマネージャーが、自分がボーイをしていたのは十八歳の頃だと話してくれた。当時十八歳だった崔さんは、「自分はいつになっ
Author: 楊振生=写真·文 Year 2005 Issue 11 PDF HTML
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23. ベトナム国境の町の発展に力を尽くす
河口県は雲南省の東南に位置し、ベトナムのラオカイと河を隔てて接する国境の町だ。その国境線の総延長は百九十三キロに及び、南漢河はここで本流のソンコイ川(紅河)と合流する。一九九二年に国境経済合作区が設立され、国家の「一類」陸上貿易港となった。そこで、趙向前さんは人材育成を重要視し、役所の幹部たちを定期的にベトナムの大学に送って、ベトナム語を学ばせている。河口の貨物輸送量は昆明税関区の中で最も多く、輸
Author: 楊振生=写真·文 Year 2005 Issue 12 PDF HTML
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24. 自慢のピザと憩いの空間を提供
バスケットボールが大好きで、中学生の時はチームに参加し、ガードを務めていた。しかし今は仕事が忙しいので、週末に近くの体育館で友人たちとプレーするだけだ。十六歳で初恋を経験。恋愛はお金がかかるので、このときからアルバイトに打ち込む生活が始まった。しかし、昼間は学校、夜はバイトという生活はとても疲れ、学業に支障が出てきたので、半年後にバイトを辞めた。そして夏休み、ピザのチェーン店でアルバイトをしたこと
Author: 楊振生=写真·文 Year 2006 Issue 1 PDF HTML
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25. ランへの投資で悠々自適の老後生活
定年退職してからは、毎日規則正しい生活を送っている。現在の最大の関心事はラン(蘭)だ。雲南省保山市は温暖湿潤な気候のため、ランの生長に適している。そこでランを栽培する人も多く、ここの一大産業となっていて、「蘭城」とも称される。楊さんは友人の勧めで一九九八年に「剣陽蝶」という品種のランを購入した。当時の市価は一株三千元。退職金は月々三千元足らずだったが、迷ったすえに二株購入した。この二株が二〇〇二年
Author: 楊振生=写真·文 Year 2006 Issue 2 PDF HTML
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26. 「韓流」にどっぷりハマる独身生活を謳歌
意志が固く、やると決めたことは周りがなんと言ってもやる。韓国映画『情け容赦なし』を見て、そのトリック撮影と音響効果に心服し、韓国映画のファンになった。最も好きな韓国人俳優はドラマ『ガラスの華』に出演しているキム·ソンス。映像エディターとして、よい作品からたくさんのことを学ぼうとしている。現在、韓国ドラマがアジアの中ではトップの地位にあると考えているので、韓国語の勉強も始めた。今のところ恋人はいない
Author: 楊振生=写真·文 Year 2006 Issue 3 PDF HTML
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27. 「人民に奉仕する」地味な仕事をこなす
生まれ育った北京郊外の農村は、国家により土地が収用されたため、村人たちは市街地へ移住した。その際、国家は若者たちを就職させ、孫志広さんは公衆トイレの清掃員となった。この仕事を始めたばかりのころは、不満でいっぱいだった。でも、辞めることはなかった。もし辞めてしまったら、村人たちから「トイレさえ掃除できないのに何ができる?役に立たないヤツだ」と言われてしまうからだ。また、自分はまだ若い。チャンスはいく
Author: 楊振生=写真·文 Year 2006 Issue 4 PDF HTML
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28. 父親の願いを受け入れ40歳で歯医者さんに
張煕さんは代々歯科医の家庭で生まれ育った。一九二二年、曽祖父が北京の天橋の近くに歯科診療所を開いた。現在は父親が三代目として受け継いでいる。父親は張煕さんにも歯科医になってほしいと願った。しかし張煕さんは当時、野菜の鮮度を保つ技術員として成功していたため、その研究を続けたいと考え、父親の願いを拒んだ。しかし父親はあきらめきれず、やはり歯科医になっている自分の弟などと一緒に、診療所の後を継いでほしい
Author: 楊振生=写真·文 Year 2006 Issue 5 PDF HTML
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29. 新婚ホヤホヤ「足るを知る」を知る
自分のことを、夢があり空想することが大好きな、ありふれた女性だという。ファッション雑誌を愛読し(毎月平均して二百元程度費やす)、ショッピングが好きで、流行の安い洋服を見つけるのが得意だ。勤め先の「北京四聯美髪センター」は、「中華老字号」と呼ばれる老舗の国営企業。前身は一九五〇年代初頭、上海の四つの理髪店が集まってできた「四聯理髪館」で、五六年に北京へ移ってきて現在の名前に変わった。常さんは職業訓練
Author: 楊振生=写真·文 Year 2006 Issue 6 PDF HTML
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30. 「テレビに出たい」幼い頃からの夢実現
幼い頃から歌ったり踊ったりすることが大好きだった尚皓さん。学校で行われるこの種の活動にはすべて参加し、一番積極的だったという。「人から注目されるのが好きなのです。目立ちたがり屋なんでしょうね。芸能人になってテレビに出ることを夢見ていました」と笑う。もちろん、二十歳を過ぎた今は、現実はそんなに甘くないことを知っている。現在は月給千三百元(約一万八千円)で携帯電話を販売する毎日だ。それでも、友人とショ
Author: 楊振生=写真·文 Year 2006 Issue 7 PDF HTML