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Your search : [ author:構成 李雪琴 え 余陳] Total 971 Search Results,Processed in 0.168 second(s)
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11. 建設に活躍する婦人
全国の各地で社会主義建設に活躍している婦人積極分子の代表が二五〇〇名あまり、さきごろ北京にあつまつて、盛大な会議をひらきました。労働者、農民、科学者、保育員、炊事員、店員―そうしたあらゆる職場の婦人積極分子を代表する人びとがあつまつてきたのです。解放された中国の女性は、いま、いろいろの職場で男性と力をあわせて社会主義建設にはげんでいます。こんど北京にあつまつた代表たちの何の変哲もない、それでいて目
Author: 李雪琴 Year 1959 Issue 3 PDF HTML
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12. 新しい技術者の揺籃
工事現場で工事用の鉄道の支線に設けられている臨時駅から、わたしは王洪瑾(ワンホンチン)さんとつれだつて砂嵐のなかを密雲(ミーユン)ダムの工事現場へむかつた。うす暗くなつてくるころ、壯大な工事現場が眼のまえにあらわれた。巨大なダムのまえでは機械がうなり、人ごえがわきかえるようだ。それに、無数の燈火が天の川さながらに美しい。ここでは、二〇万人にのぼる人民公社の社員、労働者、技術者たちが、雨季のはじまら
Author: 李雪琴 Year 1959 Issue 8 PDF HTML
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14. 変貌する石景山製鋼所
二月のはじめ、わたしは北京(ペイチン)市內からバスに乗つて、石景山(シーチンシヤン)製鋼所に出かけた。途々の景色にはもう春のきざしが見えた。つい先ごろ降りつづいた雪もあたたかな陽ざしに溶けて無数のちいさな流れとなつており、永定河(ユンテインホー)畔のポプラも、うつすらと緑をおびて、春のちかいことを告げている。百花らんまんと咲きみだれる春の花園、栄えゆくわたしたちの祖国―春風に頰をなぶらせながら、わ
Author: 李雪琴 Year 1960 Issue 4 PDF HTML
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15. 労働者が文化·科学の主人公に
わたしは大きな規模をもつた天津(テンチン)トラクター製造工場を数日間にわたつて参観した。ここで会つた人たちは一人のこらず学校にはいつていた。一定の学力をそなえたものは技術を学び、技術を身につけているものはまたその学力を高めるために学んでいる。小学校卒業程度のものは中学にはいり、中学卒業程度のものは大学にはいつている。多くの学生はまた教師でもあつて、あるクラスでは学生として学んでいるものが、別のクラ
Author: 李雪琴 Year 1960 Issue 5 PDF HTML
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16. ある下町の移り変わり
南京に一枝園とよばれる横町がある。以前、ここでこんな事件があった―この横町に住む若い女性労働者が百貨店で腕時計を買ったところ、こそ泥にねらわれた。こそ泥は途中では手を下さず、家まであとをつけてきて、時計を盗み出したのだが、逃げだすとき、女性にみつかってしまった。「泥棒!」という彼女の叫び声で、通行人がみなでそのこそ泥をつかまえたわけだが、しかし隣近所の十数軒は、始めから終わりまで、だれ一人として姿
Author: 李雪琴 Year 1981 Issue 8 PDF HTML
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17. 北京新しい魅力
世界最大の広場に臨んで建つ天安門。一九四九年十月一日、毛沢東主席が、この天安門の楼上から、中華人民共和国の成立を宣言したことは、余りにも有名です。新中国のシンボルとなった天安門は、明代、清代をつうじて、皇城の正門でした。北京城は、内城と外城に分けられ、内城の中央南部に皇城が、皇城の中に紫禁城が位置します。天安門の南、広場をはさんでとおく天安門とあい対するのが正陽門。内城の正門にあたります。俗称は前
Author: 構成·え 魯忠民 Year 1990 Issue 2 PDF HTML
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18. 山西古跡めぐり ②五台山
五台山の名は、日本人にもなじみが深いのではないでしょうか。早く文殊菩薩(もんじゆぼさつ)のあらせられる聖地とされ、唐代には、玄昉(げんぼう)、霊仙、円仁(えんにん)、宋代には、奝然(ちようねん)、成尋(じようじん)といった日本の高僧が、万里を遠しとせずして、この聖山を訪れています。山西省の東北部、五台県内にあり、高くそびえる五つの峰の山頂は、さながら「うてな」のように平らなことから、「五つの台(う
Author: 構成·え 魯忠民 Year 1990 Issue 11 PDF HTML
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19. 山西省古跡めぐり④平遥
太原市から南西へ九〇キロ、明·清代の城郭がそっくり残るまち―平遥を、山西省古跡めぐりの旅の最後に訪れます。城壁に囲まれたまち全体が、そのまま“古代城郭博物館”といった趣の平遥は、周の宣王の時代(紀元前八二七~前七八二年)に、大臣の尹吉甫が築いたといわれますが、今に残る城壁は、明の洪武三年(一三七〇年)から、それまでの城壁を基礎に拡大築造されたもの。東西南北に直交する街路と通りに面して並ぶ商家、奥に
Author: 構成·え 魯忠民 Year 1991 Issue 1 PDF HTML
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20. 天下の名山 黄山
黄山は、安徽省の南部にある東西三〇キロ、南北四〇キロにおよぶ景勝地で、明代の大旅行家徐霞客が全国各地の名山大河を歴遊したのち、ここに来て、国じゅうに安徽の黄山に及ぶ山はなく、黄山に登ればほかに登る山はない、とたたえた所だ。黄山は、黒い石が多いので、はじめは黟(い)山といった。唐時代、道教を信じた玄宗皇帝が、遠い昔、この山で黄帝が不老不死の仙薬をねったことを聞いたので、天宝六年(七四七)に、黟山を改
Author: 構成 曹復 え·岳峰 Year 1991 Issue 5 PDF HTML