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Your search : [ author:写真·文 狄華] Total 592 Search Results,Processed in 0.104 second(s)
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11. 母系社会の女たち、男たち
中国に存在する、神秘の女性王国をみなさんにご紹介したいと思う。大昔から今に至るまで、正真正銘の母系社会が営まれているその場所は、雲南省·麗江の北に位置する、瀘沽(ろこ)湖のほとりにある。瀘沽湖は、四川省·塩源県と雲南省·寧蒗イ(彝)族自治県にまたがって広がる。麗江からの幹線道路がまだ開通していない時代には、瀘沽湖への旅は困難極まるものだった。食事、宿泊の施設など何もない山道を、馬で約半月をかけて行
Author: 写真 文·狄華 Year 1999 Issue 10 PDF HTML
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12. 母系社会の恋愛事情
中国少数民族の一つ、ナーシー(納西)族の一部族であるモースオ(摩梭)は、瀘沽(ろこ)湖のほとりで、独特の家庭を営んでいる。家庭は、高祖母、曾祖母、祖母、母、その姉妹と兄弟たち、子供たちで構成されている。そこには、女性たちの配偶者も、男性たちの配偶者も住んでいない。母系社会のモースオ部族の家庭は、通い婚によって繁栄が維持されているからだ。女性は成年に達すると、自分の寝室をもつが、成年男性の部屋はなく
Author: 写真 文·狄華 Year 1999 Issue 11 PDF HTML
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13. 通い婚が続いた理由は
モースオ部族の間で、「通い婚」が数千年も変わらず続いているのはなぜだろう。歴史をひもといてみれば、元のフビライが大理国(現在の雲南省昆明付近)を征服して以来、瀘沽(ろこ)湖一帯は、中央政権の統括下に入り、土司制(元明清時代、少数民族の首領に世襲の官職を与え、その地の人民を支配させた制度)がしかれた。濾沽湖および、その周辺の寧蒗県、永寧県の住民は、中央政府に各種の税金をおさめ、各家から、労役の人間を
Author: 写真 文·狄華 Year 1999 Issue 12 PDF HTML
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14. 人間として認められる13歳
北京から丸四日を掛けて、雲南省と四川省の省境·寧蒗県にある瀘沽(ろこ)湖湖畔のモースオ(摩梭)人居住区に到着したのは、大晦日前夜だった。モースオ人は、今でも母系社会の伝統を守り続けている部族で、一年二回、年越しを祝う。一つは「小正月」で、旧暦十月、秋の収穫後の古日に、お祝いとして豚をさばき、母系のごく近い親族を招待して祖先の霊を祀り一家団欒する。もう一つは、臘月(旧暦十二月、新暦一月前後)下旬から
Author: 写真 文·狄華 Year 2001 Issue 11 PDF HTML
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15. 三峡ダムに沈む 神農渓
三峡ダムの建設により、長江沿いには多くの新しい風光明媚なスポットが生まれる。しかし、長年親しまれてきた景勝地の中には、ダム湖の水位上昇とともに消失してしまうところもある。「中国一の川下りの名所」と称えられてきた神農渓も、そんな景勝地のひとつだ。男の川神農渓は、湖北省神農架の雪山に源を発し、人が足を踏み入れたことのない原生林やカルスト地帯、十七の山の間を流れ、湖北省宜昌市の巴東県で長江に流れ込む。全
Author: 写真 文·狄華 Year 2002 Issue 6 PDF HTML
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16. 泥塑をつくる農民―湖北省黄陂(ホワンビー)県
中国では、プロレタリア文化大革命いらい、文学·芸術の分野で、喜ぶべき現象が数多くみられるようになった。そのひとつが労働者、農民、解放軍の戦士が文学·芸術の創作にたずさわるようになったことである。かれらは、作家や芸術家とともに、社会主義の文学·芸術を盛んにするためにつくしている。つぎに紹介する農民の泥塑もそうした成果のひとつである。長江の中流に位する湖北省の黄陂県の農民は、一年あまりの間に、社会主義
Author: 狄華 Year 1977 Issue 60 PDF HTML
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17. 古文物復元の名人 趙振茂さん
北京の故宮博物院内の青銅器館は参観に来る者の目をひく場所の一つといえよう。数多くの大きなガラス·ケースに収められている古銅器―古いものは三千余年前のもの―はほとんどが掛けがえのない重要文化財だ。ところで、読者はおそらく御存じないと思うが、これらの精巧な芸術品は地下に長い間埋もれていたので、ほり出されたとき破損が甚だしいものも多く、なかには、墓が崩れおちたため、おしつぶされて原形を失っていたのもある
Author: 狄華 Year 1978 Issue 12 PDF HTML
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18. 揚州の三大料理
かつて日本の遣唐使が上陸した揚州。鑑真和上の生地であり、若き日の和上が修行した大明寺のある揚州長江に、揚子江という別名を与えるもとになった揚州。.「故人西のかた黄鶴楼を辞し、煙花三月揚州。に下る」という李白の詩心有名だ。揚州は遠く紀元前五世紀に呉王夫差が築いた町。唐代には江南随一の大都会として栄え、家々に鶴が飼われていたという。「腰に十万貫を纏い鶴に騎って揚州に下る」という詩には、大金を持った男が
Author: 写真·文秋華 Year 1992 Issue 3 PDF HTML
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19. 湖北の手づくり豆腐
中国人は豆腐料理が大好きだ。栄養価が高い上に値段も安いというのが、その最大の理由だが、残念なことに、このごろはすっかり機械生産となり、手づくりの、あるいはロバに大豆を挽かせて作った豆腐というものが、ほとんど姿を消してしまった。だが、ここ湖北省は省都武漢から数十キロ西北に行った孝感、雲夢、応城、漢川のあたりでは、豆腐はいまでも手づくりが普通。味にこくがあるのはもちろんのこと、工芸品と言ってよいほど凝
Author: 写真·文秋華 Year 1992 Issue 8 PDF HTML
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20. 玉門関と漢の長城
一酢年からほほ三年、万里の長城の現淋を訴査する肺に参加する機会に恵まれた。今号から七回に分けて、その報告をすることにしよう。九〇年九月、手始めに漢代の長城遺跡を求めて、一行八人は玉門関周辺の探査に向かった。敦煙からツァイダムに通じる公路上を西南に一時聞、車は舗装路を離れてゴビの大砂漠にはいった。この先は、砂漠の奥深くからソーダと硝石を運搬してくるトラクタ-のわだちの跡をたどって進むしかない。途中、
Author: 写真 文 宝玉 Year 1992 Issue 11 PDF HTML