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Your search : [ author:本誌記者 孫聰宝] Total 323 Search Results,Processed in 0.083 second(s)
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121. 日本人民の正義の闘いをだんこ支持する
木々に新緑が萌え、鶯鳴き燕舞う晩春から初夏にかけてのさわやかな季節に、坂本徳松氏を団長とする日本北方領土返還促進活動家訪中団が、中日友好協会の招きで、中国を訪れた。ソ連の覇権主義に反対する日本人民の闘争が、ますます発展しているとき訪中された代表団には、海の向こうに北方四島を望むことのできる羅臼(らうす)町の方もいれば、南は九州から参加した方もいる。年輩の方もいれば、二十代の青年労働者もいた。みな、
Author: 本誌記者 Year 1976 Issue 9 PDF HTML
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122. 魯迅先生の令息周海嬰同志を訪ねて
おさげのあどけない少女が落ちついた客間にわれわれをいざない、茶をすすめると静かに立ち去った。周海嬰同志を待ちながら、部屋の飾りつけを眺める。窓ぎわに置かれてある飾り棚にはガラス·ケースに入った魯迅先生の石膏像があり、壁には魯迅先生の有名な七言絶句「霊台無計逃神矢,風雨如磐黯故園。寄意寒星荃不察,我以我血薦軒轅。」(霊台(こころ)は神矢(しんし)を逃れんにも計(すべ)なく、風雨は磐(いわお)の如く故
Author: 本誌記者 Year 1976 Issue 10 PDF HTML
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123. 大寨を訪れた秋田県農業青年
去年の十一月中旬、「日中友好秋田県農業青年の翼」訪中団一行が、山西省昔陽県にある大寨生産大隊を訪れた。訪中団の団長は秋田県知事の小畑勇二郎氏、顧問は日中友好協会(正統)本部副会長の吉田法晴氏である。大寨生産大隊の戸数は九十戸あまり、中国の有名な農業面での先進的単位で、ここを知る日本の友人も少なくない。ここ数年来、中日両国の友好往来がさかんになるにしたがって、大寨を訪れる日本の友人はぐんとふえている
Author: 本誌記者 Year 1977 Issue 0203 PDF HTML
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124. 抗震救災の第一線に立つ中国人民解放軍
昨年七月二十八日の未明、唐山市が大地震にみまわれると、毛主席と党中央の命をうけた人民解放軍は、ただちに四方八方から罹災地にかけつけた。かれらは市民の救出、負傷者の治療にあたる一方、労働者とともに工場の復旧に従事し、住民を助けて家屋の修繕、新築につとめた。また、郊外にある人民公社の社員と肩をならべて取り入れをおこなった。そればかりではない。かれらは食糧の運搬、飲料水の分配にもあたった。また町角で市民
Author: 本誌記者 Year 1977 Issue 0203 PDF HTML
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125. 日中両国婦人の心はひとつ
昨年の七月のことだった。近いうちに日中友好婦人の翼第一次訪中団が訪問するから、その訪中団に随行するようにという知らせをうけた。『人民中国』雑誌社の一婦人記者として、わたしは、一度に百三十七人の日本の婦人と接し、行動をともにする機会にめぐまれたことをとてもうれしく思った。そして友人たちの来訪の日を、胸をおどらせて待っていた。ところが、折悪しく、七月二十八日に唐山地区で大地震があり、それが北京にも波及
Author: 本誌記者 Year 1977 Issue 4 PDF HTML
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126. 人民に見捨てられた「四人組」
「四人組」が粉砕されてから一ヵ月後に上海を訪れた記者にたいして、親戚の者や友人は上海がわきたちかえった十月になぜ来なかったのか、と言った。「祝賀のデモが夜を日に継いでおこなわれ、上海市民の三分の二がそれに参加した。ドラや太鼓の音、爆竹のひびきがあたりを圧した。宣伝カーがしょっちゅう放送をつづけた。ベッドに横になっても寝つかれず、宣伝カーの放送に耳を傾けながら喜びをかみしめていた」と友人のひとりが言
Author: 本誌記者 Year 1977 Issue 4 PDF HTML
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127. 長江の旅(一)
カラー参照中国最大の川―長江。この雄大、壮麗な長江は、万里を滔々と流れて、百八十余万平方キロの沃土をうるおし、中華民族を世々代々はぐくんできた。 長江は、中国歴史の目撃者である。解放前の旧社会では長江は嗚咽し、咆哮した。新中国が成立していらい、長江は賛歌をひびかせ、歓騰している。 この長江で、偉大な指導者毛主席はいく度か遊泳した。そのときの情景を、中国人民はいつまでも忘れないであろう。毛主席は、長
Author: 本誌記者 Year 1977 Issue 4 PDF HTML
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128. 長江の発源地をめざして
カラー参照崐崙峠を越える取材班は、万全の準備をととのえると長江の発源地をめざして出発した。一九七六年の七月下旬、ジープ三台、トラック二台からなる車隊は西寧をあとにして青蔵公路(青海省の省都西寧からチベット自治区の主都ラサにいたる自動車道路、全長二千百余キロ)をつきすすんだ。出発して四日目には崑崙山脈にさしかかった。崑崙山脈は中国でも有名な山脈で、西のパミール高原から東の四川盆地の西端にえんえんと連
Author: 本誌記者 Year 1977 Issue 5 PDF HTML
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129. 無人地帯を行く
カラー参照泥沼と苦闘する八月十二日(昨年)、われわれは青蔵(青海·チベット)公路を離れて、長江の発源地―タングラ山脈の主峰、グラダンドン雪山に向かった。トラック二台とジープ二台からなる車隊は、道のない山の背、峡谷、草地を、あえぐように上り下りしながらすすんだ。自動車はどれも前後両輪駆動のうえ、いざという場合のウインチやロープを積み込んだのもあるのだが、運転手たちは全神経を集中して地形を観察し、コー
Author: 本誌記者 Year 1977 Issue 6 PDF HTML
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130. 大地震後の唐山をふたたび訪ねて
グラビア参照1976年7月28日、渤海湾にのぞむ河北省の重工業基地―唐山は震度7.5の強烈な地震にみまわれ、大きな被害を出した。 中国人民は、この大地震がもたらした被害をものともせず、自力で唐山の復旧につとめた。はやいもので、唐山大地震が発生してやがて一年になる。その後の唐山を記者は二回にわたって取材した。 ―編集部唐山に大地震が発生してから一ヵ月あまりたった、一九七六年の九月上旬、記者は震災地を
Author: 本誌記者 Year 1977 Issue 7 PDF HTML