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1. 竜門二十品
竜門の石窟は河南省洛陽市の南一二·五キロのところにある。その昔、この地は伊闕(いけつ)とよばれた。西に竜門山、東に香山、両山が天然の門構えとなって対峙するなかを、伊水が流れ、あるいは山の斜面に、あるいは川の流れに近く、無数の洞窟がうがたれて、古来、中国石窟芸術の宝庫のひとつになっている。これらの洞窟には、南北朝北魏(紀元三八六~五三四年)以来のすばらしい彫刻芸術が保存されているだけでなく、また、三
Author: 璟芬 Year 1980 Issue 1 PDF HTML
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2. 唐の柳公権
唐代は、中国書道史のうえでは、楷書の発達がその極に達した時期である。したがって、多くの書家があらわれるが、初期を代表する大家としては、ふつう、欧陽詢、虞世南、褚遂良、陸柬芝の四人があげられる。そして、そのあと、顔真卿、柳公権などの名筆が続出する。これらの書家はいずれも、後代に大きい影響をもつ人たちだが、なかでも、顔·柳二人の影響はすこぶる大きい。中国では書道を習いはじめるとき、ふつう楷書の手本とし
Author: 璟芬 Year 1980 Issue 4 PDF HTML
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3. 唐·顔真卿の行草書
顔真卿は唐代の傑出した書家であり、また有名な政治家でもある。字は清臣といい、原籍は琅琊(いまの山東臨沂県)。唐の中宗の景竜三年(七〇九年)生まれ。五代目の顔之推のとき、当時の都長安の万年県(現在の西安市付近)に移った。顔真卿は唐の徳宗の貞元二年(七八五年)、反乱軍の頭目李希烈を説得するよう命をうけたが、逆に李に捕えられ竜興寺で締め殺された。享年七十七歳だった。顔真卿が政治の舞台に登場したのは、唐王
Author: 璟芬 Year 1980 Issue 8 PDF HTML
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4. 清·何紹基とその書法
康熙、乾隆以後の清では金石考証学がたいへん盛んになる。そして碑学が大いに興るが、それにともなって書風も大きく変化した。碑学を提唱する人たちは、晋の王羲之の書風も歴代の世襲を経てすでにあるべき本来の姿をうしない、偽りが多く、筆法柔軟であると言い、だからこそ碑学を提唱するのだと言う。楷書と行書は篆隷の八分書(篆書と隷書との中間的な書体。隷の二分、篆の八分を取るの意)から出ている。本を追い、源をたずね、
Author: 璟芬 Year 1981 Issue 12 PDF HTML