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Your search : [ author:黄秀芳] Total 78 Search Results,Processed in 0.128 second(s)
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21. 美容体操に静かなブーム
つい六、七年前までは人びとに冷やかされていた美容体操が、今や多くの中国人の新しい流行となりつつある。北京月壇体育館にある北京利生健康城には、毎日朝九時から夜九時までの間に千人以上の人がやって来る。広さ六、七〇〇平方メートルのグラウンドに老若男女が整列し、リズミカルな音楽に乗ってさまざまに体を動かす。一コース百二十分。名づけて「大衆エアロビクス」という。生命のはつらつたる躍動に、見ている方も興奮させ
Author: 本誌·黄秀芳 Year 1993 Issue 11 PDF HTML
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22. CCTVの特別番組『農民の夕べ』好評さくさく
さる八月五日、中央電視台(CCTV)、『中国農民』雑誌社共同制作のテレビ番組『陽光·土地·農民の夕べ』の招きに応じて、全国から百人の農民代表が北京にやってきた。その中には、食糧生産や牛の飼養などで卓抜な成績を収めた人とか、年間一億元の生産額を達成した郷長などがいた。マイカーで乗りつけた人や秘書を連れてきた人もいれば、自家製の農産物を担いで来た人もいた。そんな姿から、中国の農村で進んでいる変化がはっ
Author: 本誌·黄秀芳 Year 1993 Issue 12 PDF HTML
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23. 一風変わった「カラオケの夜」 北京人芸の新しい試み
去年の末、一九九三年演劇カラオケの夜という新機軸が北京人民芸術劇院(人芸)に出された。首都劇場は、北京市で最も賑やかな王府井大通りに面し、五〇年代から『茶館」『駱駝の祥子』『雷雨』のような名作を引き続き舞台化したことで、「芸術の神殿」といわれる。十月二十五日夕方六時三十分、首都劇場の見慣れた玄関を入ったとたん、「今日は縁日かしら」と思わずわが目を疑った。広々としたロビーには、“老裕泰”(『茶館』)
Author: 本誌·黄秀芳 Year 1994 Issue 2 PDF HTML
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24. 姜文 監督第一作も完成
「いま君は二十九歳、もう七本の映画に出て、中国の男優でトップスターだという。二十九歳と言えば、私が『卒業』で映画デビューした年ですよ」と語ったのは有名なダスティン·ホフマン。姜文の演技の秘密はどこにあるのだろうか。1963年生まれ。80年中央戯劇学院入学。84年中国青年芸術劇院に配属される。85年『最後の皇后』で映画デビュー。87年の『芙蓉鎮』と88年の『春桃』で百花賞男優主演賞受賞。ほかに87年
Author: 本誌·黄秀芳 Year 1994 Issue 2 PDF HTML
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25. 蔡国慶自然に歌い自然に生きる
七歳ですでに北京で名の知れた少年歌手だった。十一歳のとき最初のレコードが発売された。改革開放によって一躍中国ポピュラー音楽界のスターとなった。だが彼は言う。「自然に歌い、自然に生きたい―それがぼくの信条です」「ぼくはピアノが大好きで、四つか五つのときにはもう鍵盤をたたいていましたよ。よく弾けたときはチョコレートを一枚、自分で自分にごほうびをやったものです」そして二十年後、この少年は国の内外から「東
Author: 本誌·黄秀芳 Year 1994 Issue 3 PDF HTML
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26. 葛優「醜星」と言われる名優
『子供たちの王様』などの謝園、『黒い雪の年』などの梁天、『さらば、わが愛―覇王別姫』などの葛優、『街角の騎士』などの馬暁晴。この四人を、上海のある新聞が中国映画の「四大醜星(容貌の醜いスター)」だと書いた。中でただ一人の女優馬暁晴は大いに立腹したが、葛優はしばらく考えた末、ボソリと言った。「ぼくだって醜男(ぶおとこ)じゃないよ」『さらば、わが愛』の撮影現場で、記者は陳凱歌監督に「あなたが最も高く評
Author: 本誌·黄秀芳 Year 1994 Issue 5 PDF HTML
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27. 北京大学にも時代の波
北京大学は、九十六年の歴史を持つ中国で最も有名な総合大学だが、この十五年来の改革開放によって、静かだったキャンパスも、とうとうたる時代の大波に洗われるようになってきた。新入生の募集から勉学、卒業に至るまで、また学生から教員に至るまで、いまだかつてない変化が起こっている。それらの変化は、変革の途上にある中国の大学教育全体の縮図だと言えるだろう。昨年春、キャンパス南側の塀が取り壊され、跡に長さ約五〇〇
Author: 本誌·黄秀芳 Year 1994 Issue 6 PDF HTML
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28. 盛況の国際服飾コンテストフアッション界に若い推進力
ことしの四月二十五日午後二時、北京国際飯店の多目的大ホールは大入り満員の人びとでざわついていた。かしこまった表情の審査員諸氏、気がはやる観客およびマスコミ陣、みなが94ブラザー·カップ―中国国際新人デザイナー·コンテストの開幕を待っている。その観客席と対照的にグレーのT型ステージがホールの中央に伸びていて、バックの「Brothre Cup」という白く大きい文字が重々しく神秘的な雰囲気を漂わせている
Author: 本誌·黄秀芳 Year 1994 Issue 9 PDF HTML
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29. 「深圳」めざす蘇州市昆山初の自費経済技術開発区
雨の中を昆山についた車は、一○平方キロにわたる中国初の自費経済技術開発区を走っている。北京の長安街のような広い道路の両側に並ぶ豪壮な建物は金融機関、国際ビル、ホテル、マーケット、劇場、あたり一面の現代的工場群、そして随所に見られる看板は日本シマノ変速器有限公司、台湾統一集団、アメリカの企業など、ここはあたかも真新しい現代都市のような印象を受ける。しかし、十年前は一面の田畑だった所に、このような奇跡
Author: 本誌·黄秀芳 Year 1994 Issue 12 PDF HTML
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30. 那英 フリー六年の苦闘実る
満州族エホナラ氏の出身。かの西太后と同じだ。そのせいか、那英も気性が激しく、また率直な性格だ。六年前、敢然として独立しフリーの歌手となったが、中国のポピュラー音楽の世界では、この道はまだまだ容易ではない、と言う。ことし一九九四年は、那英にとって特筆すべき年となった。昨年四月に台湾の福茂レコード音楽公司および北京の賽特文化発展公司の契約歌手となって以来、その日常が一変したのだ。まず一月に最初の個人テ
Author: 本誌·黄秀芳 Year 1994 Issue 12 PDF HTML