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Your search : [ author:構成·え 霍友峰 張紅文 孫戦科] Total 53 Search Results,Processed in 0.106 second(s)
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11. 中国の裁判制度と特別法廷
中華人民共和国最高人民法院特別法廷は林彪、江青反革命集団の主犯十名に対し裁判をおこなったが、いうまでもなくこれは、法律にもとづいておこなわれたものである。では、その適用法律はどんなものか、法廷の裁判はどのような法的手順で進められたのか、かいつまんで紹介することにしよう。公安、検察、法院の関係まず、公安(警察)、検察、法院(裁判所)の関係が中国ではどうなっているか。そして、この三機関が今回の裁判でど
Author: 孫戦科 Year 1981 Issue 5 PDF HTML
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12. わたしの党歴 『人民中国』記者の手記(上)
本年七月一日、中国共産党は輝かしい創立六十周年記念日をむかえる。この年月は、国にとって、党にとって、そして個人にとっても、並々ならぬものであった。その激動のなかを、ごく普通のひとりの人間が、党員としてどのように生き、どのように感じてきたか。歴史の証言というのはいささか大げさかもしれないが、本誌の一記者自身の体験を通して、それを知っていただくとしよう。
Author: 孫戦科 Year 1981 Issue 7 PDF HTML
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13. わたしの党歴
さる七月一日、中国共産党は創立六十周年を迎えた。苦難と栄光、その激動のなかを、ごく普通のひとりの人間がどう生きどう感じてきたか。これは少年時代から党によって育まれた本誌一記者の体験である。孫記者は、抗日戦争のさなか、九歳のとき、郷里の山東省ではじめて八路軍に接し、児童団に入って救国活動に参加した。抗戦勝利後、土地改革運動のなかで改めて中国農民の悲惨な運命と貧しさの根源を知り、一九四六年、十七歳で入
Author: 孫戦科 Year 1981 Issue 8 PDF HTML
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14. わたしの党歴
中国共産党創立六十周年にちなみ、本誌一記者の体験を語る。孫記者は、抗日戦争のさなか、九歳のとき児童団の救国活動に参加、一九四六年入党、国民党軍との戦いのなかで解放軍に入り、新聞の仕事に従う。そして一九五二年七月、北京に転勤し、『人民中国』の記者となった。十一、試練のなかで建国後、わが党がはじめて遭遇した挫折は、一九五七年の反右派闘争の過度の拡大化だった。あの運動では、おびただしい知識分子が無実の罪
Author: 孫戦科 Year 1981 Issue 9 PDF HTML
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15. 黄河上流の大洪水
巻頭グラフ参照設計基準を上回る大洪水一説に、地球の気象をかきみだすのは太陽の黒点の爆発によるといわれている。昨年八月下旬以降、乾燥地帯の黄河上流の一八万平方キロの地区、連日雨が降りつづいた。雨量は二〇〇ミリ以下であったが、黄土高原は植生の分布がほとんどなく、斜面もきりたっているため、雨水の大部分は、土砂をさらって、大きな谷間の一つ一つに注ぎこみ、滔々たる流れとなって黄河上流にあふれた。ふつう、この
Author: 孫戦科 Year 1982 Issue 1 PDF HTML
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16. 中国の民間調停
「世界のどの都市でも市民のあいだにいざこざが絶えないが、どこも徹底的な解決法を見出していない。いま中国で試みられていることは、われわれに新しい手がかりを与えてくれる」昨年中国を訪れたバーガー米連邦最高裁判所長官は、中国司法界の実状を調査したあと、全国に網の目のように張りめぐらされた民間調停組織に注目してこのような高い評価を与えた。いったい、この調停委員会の制度とは、どのようなものか。昨秋中国を訪問
Author: 孫戦科 Year 1982 Issue 5 PDF HTML
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17. 国務院の機構改革
昨年十二月、第五期全国人民代表大会第四回会議で、趙紫陽総理が国務院は政府機構の大改革を行ない、膨張した機構、人員の過剰、幹部の老化、作業の非能率の問題を、期限を切って解決することと発表したとき、議場には、満場の拍手とどよめきが起きた。かなめをつかみ国務院のこの重要な措置は強烈な反響をよび、各代表団はこれに関してテーマごとに討論を行なったが、これは国家機構のかなめをつかんだ問題だと一致して認めている
Author: 孫戦科 Year 1982 Issue 9 PDF HTML
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18. “潜在力を掘りおこせ”
漢水という河が湖北省の西北部を流れているが、襄樊市(シヤンフアン)はその中流のあたりにある。襄陽(シヤンヤン)と樊城(ツアンチヨン)という二つの町が合併して出来た市で、今も襄陽は南、樊城は北と、漢水をはさんで向かいあっている。この一帯は有名な古戦場であった。史書をひもとくと、歴史上、ここでは、激しい戦が二十数回も行なわれたことがわかる。中国人なら子どもでも知っている諸葛孔明(一八一~二四三)は、こ
Author: 孫戦科 Year 1983 Issue 2 PDF HTML
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19. 王震将軍のこと
うれしい知らせ予定より二日おくれて着いたけれども、佳木斯駅では、農墾局の専用車が待っていてくれた。出迎えは顔見知りではないが、高く掲げているその札を見れば、旧知のようになつかしい。迎えの人の話では、日本訪問から帰ったばかりの王震同志が佳木斯に見えているが、われわれ老北大荒人の来訪のことを知ると老将軍はたいへん喜ばれて、佳木斯賓館でみんなと会見しようということになった、車で直行すれば会見に間に合うか
Author: 孫戦科 Year 1986 Issue 8 PDF HTML
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20. 「右派村」へ里帰り
世にもまれな艱難辛苦こんどは招かれて訪れた北大荒であったが、その最初の十日間は、まばゆいばかりの新しい世界に、“井の中の蛙”だったわたしはすっかり心を奪われてしまった。中でも、とりわけ感動を覚えたのは、やはりかつてのわが家を訪れたときであった。今回はそこから書き始めよう。北大荒へ送られてまず最初の住み家は、われわれ「右派」が創建した八五三農場第二分場の第六生産隊であった。八五三農場という名は、王震
Author: 孫戦科 Year 1986 Issue 9 PDF HTML