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Your search : [ author:北京外国語大学日本語学部 主任 汪玉林] Total 81 Search Results,Processed in 0.104 second(s)
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11. 開かれる北京日本学研究センター
中国における日本研究や日本語教育の拠点「北京日本学研究センター」が、中日共同の文化交流事業として北京に開設されて十六年。来年の中日国交正常化三十周年には、日本の政府開発援助(ODA)により初めて、センターのビルが北京に建設される予定で、その発展には一層の期待がかかる。センターの歴史的な意義と今後の日標などについて、中日双方の代表の徐一平、並木頼寿両氏に話し合ってもらった。「大平学校」含め千人卒業並
Author: 徐一平·北京日本学研究センター主任 並木頼寿·北京日本学研究センター主任教授 Year 2001 Issue 6 PDF HTML
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12. 經濟建設のための中國の自然條件
中國は世界第二の廣大な國土をもつ大國である。その面積は九百五十九万七千平方粁で、全欧州の面積にほぼ等しい。海岸線の長さは一万一千粁(島嶼をふくまず)に達している。陸地の國境線の長さは一万五千粁で、その大部分はソ同盟と境を接しており、二の二大國相互間の経緕、文化の交流にきわめて有利な条件となつている。中國の領土は廣大であり、そのため地勢と気候はいろいろさまざまで、農業、林業、漁業、牧畜業などの発展に
Author: 中國人民大學經濟地理研究室主任 孫敬之 Year 1953 Issue 5 PDF HTML
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13. ②『ろくでなし』が出世した!
「旧い社会ではうだつがあがのらなかつたが、新しい社会では働けば働くほど若がえり、力がわき、かしこくなる」新しい社会と旧い社会での生活体験を、人びとはよくこうした言葉でいいあらわす。この言葉は、わたしにとつてとりわけ切実な、真実味のある言葉に感じられる。わたしは十二の年に資本家の経営する工場で働きはじめ、そこで十何年かをすごしたが、死ぬような苦しみをうけたあげく、結局は何のうるところもなかつた。解放
Author: 席克強 蘭州自動車部品製作工場組立職場主任 Year 1961 Issue 5 PDF HTML
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14. 奴隷から国の主人公に
わたしはチベットのコンガ県に住む奴れいの子として生まれた。そして、反動的な封建農奴制度のもとで、非人間的な奴れい生活を九年間つづけた。その苦難のどん底からわたしを救い出し、牛馬にもおとる奴れいだったわたしを共産党員に育てあげてくださったのは、ほかでもなく毛主席と共産党だ。わたしを生んでくれたのは母親だが、わたしを救ってくれたのは党であり、わたしをはぐくみ育ててくれたのは毛沢東思想なのだ。「毛主席万
Author: チベット自治区革命委員会副主任 バサン Year 1972 Issue 3 PDF HTML
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15. 遊撃隊員のころをおもう
毛沢東思想にはぐくまれて、子どもたちがすごやかに育っているのをみるにつけ、わたしは過去のことを思いだすのです。遊撃隊という大きな学校で一九三七年七月七日の蘆溝橋事変のあと、日本のファッショ侵略者は中国にどっと押し入りました。国民党反動派は敗退につぐ敗退で、わたしのふるさとの安徽省も敵の占領下におかれました。侵略者の鉄蹄のもとで、中国人民は家を焼かれ、肉親を殺され、略奪をうけていたのです。しかし、中
Author: 湖南省長沙市郵便局革命委員会副主任 方明 Year 1972 Issue 3 PDF HTML
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16. 友好都市天津と神戸の交流
天津市と神戸市は、中日両国の都市間で、さいしょに反好都市の関係をうちたてた間柄にある。今年の六月で、その二周年を迎える。天津と神戸の市民は、この二周年を心から祝っているが、この間、両都市間の友好往来がたえず発展し、両市民間の友情が日ましに深まっていることは、まことによろこばしいことである。友情のかけ橋中国と日本は、一衣帯水の隣国であり、両国人民には長い友好往来の歴史がある。渤海湾は瀬戸内海に通じ、
Author: 天津市革命委員会外事弁公室副主任 張禹城 Year 1975 Issue 6 PDF HTML
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17. 兵馬俑の芸術的考察
中国史上、夏、商、周三代から春秋戦国時代にかけての出土文物の多くは、玉器、石器、陶器、銅器を問わず、その文様·図案はほとんど神話を装飾化したものかまたは動物の形象である。これらの芸術品は古代人の文化や信仰、哲学や思想を理解するのに重要な意義がある。ところが、人物を直截に表現したリアルな彫刻、祖先の生活や物質文明などを反映した古代の彫塑はまれにしか発見されていない。秦の始皇帝の兵馬俑のような実生活中
Author: 中央美術学院彫塑学科主任、教授 傅天仇 Year 1982 Issue 7 PDF HTML
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18. 霊芝について
私の医学生時代のことです。夏休みのある日、小学校の同窓生の王君が訪ねてきました。「君は医者の卵だからちょっと教えてくれないか。実は、ぼくの伯母が気管支拡張症で、この十年ほど、喀痰、喀血の発作を繰り返しているんだ。しかもこの半年間は発作がますますひどくなって、何度も病院に行って、抗生物質、咳止め、止血剤といろいろ飲んでみたが、ほとんど効果がない。今日、親戚から霊芝という薬をもらったけれども、飲み方が
Author: 南京市中医学院内科研究室主任 尤松鑫 Year 1986 Issue 6 PDF HTML
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19. よみがえる「三国志」の世界
■巻頭カラー参照地下に眠ること千七百余年。『三国志演義』にも登場する歴史人物の墓が、このほど、安徽省文物考古研究所の考古グループによって発掘された。出土した文物に、わたしたちは、それこそ目を奪われてしまったといっても決して過言ではない。文字どおり三国時代の文物の宝庫である。ところで、考古学ファンの話題を独占したこの歴史人物とは誰だったのだろうか。千七百年の眠りから覚めて呉の名将にして孫権の“右腕”
Author: 安徽省文物考古研究所考古部副主任 丁邦鈞 Year 1986 Issue 12 PDF HTML
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20. 「文明礼貌」ということ
「文化大革命」以降の中国に非常に特徴的なことは、市民生活の標語として「文明礼貌」ということばが大きくかかげられたことでしょう。この標語が、市民の教化にどれだけの効果をあげたのか、以前のことを知らない私には、よくわからないのですが、私たち日本人の目から見て、現在の状況が、一般にあまり文明礼貌的であるようには、残念ながら、思えません。こう言うと、中国の人たちが、動作が粗暴で不愉快に感じられると言ってい
Author: 在中国日本学研究センター主任教授 林四郎 Year 1988 Issue 3 PDF HTML