Current Location: Home » Full Text Search
Your search : [ author:写真·文 小林さゆり] Total 500 Search Results,Processed in 0.099 second(s)
-
12. ありのままの日本を伝えたい
日本の国際文化交流事業を推進している独立行政法人の国際交流基金(本部·東京)。日本のほかにも海外十八カ国に事務所をもつが、中国における窓口の北京事務所に赴任して三年半になるという。スタッフは中国人四人と日本人のあわせて九人と少人数だが、事業はじつに多岐にわたる。展示や舞台芸術などを通じて日中の文化交流を進める「文化芸術交流」や、中国の日本語教師の研修などを行う「日本語教育」支援、そして自らが中心と
Author: (文=銭海澎 写真=小林さゆり) Year 2005 Issue 2 PDF HTML
-
13. 私たちが見たODA
二十一世紀を担う中国の大学生たちに、中国における日本の政府開発援助(ODA)の現状を紹介し、理解を深めてもらおうとする視察研修旅行がこのほど、四川、貴州の両省を中心に行われた。ODAの実施機関である日本国際協力事業団(JICA)中国事務所が主催したもので、今回はその二回目。中国の内陸部におけるODAの現状に初めてふれた学生たちは、新鮮な驚きとともに、そのもようを語ってくれた。この「JICA事業視察
Author: JICA事業を視察した中国の大学生 小林 さゆり Year 2002 Issue 3 PDF HTML
-
14. 食文化の旅 秦淮河風味の小吃
南京市内を流れる秦淮河は、遠く秦の時代に開削された運河。江南の貴族文化が欄熟した六朝の時代(三世紀初め~六世紀終わり)から、その両岸に高殿や酒楼が軒を並べ、明清の時代(十四世紀半ば~二十世紀初め)になってさらに栄えた。いまも南京で指折りの繁華街として、正月や節句には三十万入からの入出で賑わう。中でも夫子廟地区は、食文化の中心ともいうべきところρ古い歴史を誇る料亭、茶荘、酒楼、小吃(一品料理)店など
Author: 写真·文狄華 Year 1992 Issue 1 PDF HTML
-
15. 揚州の三大料理
かつて日本の遣唐使が上陸した揚州。鑑真和上の生地であり、若き日の和上が修行した大明寺のある揚州長江に、揚子江という別名を与えるもとになった揚州。.「故人西のかた黄鶴楼を辞し、煙花三月揚州。に下る」という李白の詩心有名だ。揚州は遠く紀元前五世紀に呉王夫差が築いた町。唐代には江南随一の大都会として栄え、家々に鶴が飼われていたという。「腰に十万貫を纏い鶴に騎って揚州に下る」という詩には、大金を持った男が
Author: 写真·文秋華 Year 1992 Issue 3 PDF HTML
-
16. 北京で味わえる地方料理東坡肉(浙江料理)
浙江省の料理としてよく知られているのが、この東城肉です。すでに900年以一f”の歴史をもつ名物料理。宋代の大文豪、蘇東披に由来する料理でもあります。左遷させられて杭州の地方官となった蘇東士皮は、西湖にf.手を築いて農地にかんがいし、人々に幸福をもたらしました。ある日、豚肉と紹興酒を贈られた東城は、家人にこれを料理して労働者に届けるよう言いつけます。家人は肉と酒を一緒に料理するものだと思って作ったと
Author: 写真·文 狄華 Year 1992 Issue 6 PDF HTML
-
17. 武昌の魚料理
誰でもょく知っている武昌魚。毛沢東が「長沙の水を飲み、武昌の魚を食べる」と詩に詠んだところから名を馳せるようになった。誰もが一度は食べてみたいと思う魚だ。武昌魚の名は千七百年以上も前の古書にも載っている。昔も今も、多くの詩人墨客が詩に詠んでほめたたえている魚である。学名は妨魚(トガリヒラウォ)。湖北省武昌の梁子湖でとれる。この湖と長江の間に短い川があるが、毎年秋になると、湖の魚は湖水とともに長江に
Author: 写真·文 狄華 Year 1992 Issue 7 PDF HTML
-
18. 湖北の手づくり豆腐
中国人は豆腐料理が大好きだ。栄養価が高い上に値段も安いというのが、その最大の理由だが、残念なことに、このごろはすっかり機械生産となり、手づくりの、あるいはロバに大豆を挽かせて作った豆腐というものが、ほとんど姿を消してしまった。だが、ここ湖北省は省都武漢から数十キロ西北に行った孝感、雲夢、応城、漢川のあたりでは、豆腐はいまでも手づくりが普通。味にこくがあるのはもちろんのこと、工芸品と言ってよいほど凝
Author: 写真·文秋華 Year 1992 Issue 8 PDF HTML
-
19. 曲阜の孔府菜
最近私は、孔子のふるさと山東省曲阜を訪れ、孔府菜IIすなわち孔子の家に代々伝わってきた料理を賞味したばかりか、孔子第七十七代の孫娘である孔徳愁(こう·とくぼう)さんとそのこ子思の何達さんから、孔府菜の話をいろいろうかがつという幸運に恵まれた。孔府菜研究会の名誉主席であり、ご自身が美食家でもある孔さんのお話は、料理同様に含蓄に富んだものであった。「食(めし)は精(しらげー白い)なるを厭(いと)わず、
Author: 写真·文 狄華 Year 1992 Issue 9 PDF HTML
-
20. 玉門関と漢の長城
一酢年からほほ三年、万里の長城の現淋を訴査する肺に参加する機会に恵まれた。今号から七回に分けて、その報告をすることにしよう。九〇年九月、手始めに漢代の長城遺跡を求めて、一行八人は玉門関周辺の探査に向かった。敦煙からツァイダムに通じる公路上を西南に一時聞、車は舗装路を離れてゴビの大砂漠にはいった。この先は、砂漠の奥深くからソーダと硝石を運搬してくるトラクタ-のわだちの跡をたどって進むしかない。途中、
Author: 写真 文 宝玉 Year 1992 Issue 11 PDF HTML