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Your search : [ author:本誌記者 孫聰宝] Total 323 Search Results,Processed in 0.109 second(s)
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161. 南京から鎮江まで
グラフ参照采石磯に李白を偲ぶ長江の下流は俗に揚子江と呼ばれていた。それは、むかし揚州の長江べりに「揚子津の渡し場」というのがあったからだ。隋、唐(五八一~九〇七年)のころから、揚州はすでににぎやかな国際都市となっていたのである。船は揚子江をくだりつづける。安徽省の最後の都市·馬鞍山(マーアンサン)にさしかかると、右岸にそそりたつ大きな岩山が見えてくる。その高さ五十メートル、崖を覆う木々のみどりが川
Author: 本誌記者 Year 1978 Issue 11 PDF HTML
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162. 大河海に入る
グラフ参照豊かな長江デルタ鎮江市でしばらく長江から離れ、京杭大運河(北京から杭州まで全長一七九四キロ)の一部である江南運河(鎮江から杭州までの部分をいう)ぞいに南下して太湖を周遊すると、その風景はまた格別である。江南大運河は、長江のように雄大ではないが、穏やかな女性にも似て、静かに長江を助け、調節の役割を果たしている。一年を通じて航行が可能であるばかりでなく、流域にあるおびただしい池やダムが理想的
Author: 本誌記者 Year 1978 Issue 12 PDF HTML
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163. 〈1〉「天安門事件」の真相
一九七六年四月初旬、北京で起こった「天安門事件」は、かつて世の人びとの注目をあつめた。当時、この事件は「反革命事件」と見なされたが、それから二年七カ月経た一九七八年十一月、中国共産党北京市委員会は党中央の同意を得て、「完全に革命的な行動である」と発表した。天安門事件の真相が白日の下にさらされたのである。なぜ人民は天安門広場を選んだのかその年の清明節は四月四日だった。中国では、毎年、清明節の日には墓
Author: 本誌記者 Year 1979 Issue 3 PDF HTML
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164. 恋愛·結婚·家族
一九七四年一月号の本誌に一枚の写真をのせたことがある。公園の一角でのどかに休日を楽しむ何組かの若いカップルの写真である。このごくありふれた日常的なスナップが物議をかもし、「ブルジョア的思想傾向」として批判されたのである。林彪、「四人組」が羽ぶりをきかしていたころには、善悪の基準というものがなかった。青年が、恋愛し、結婚し、家庭をもつ―こういったごく普通のことも彼らの糾弾と圧迫の対象になったのである
Author: 本誌記者 Year 1979 Issue 7 PDF HTML
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165. ある「居民院」住人たちの変遷
取材の発端「おっ、この記事はいけるぞ」編集部のA君が、その日の新聞を見ながら叫んだ。「何か重要ニュースかね」居合わせた人びとが、思わず聞きかえす。「読者の投稿だよ」とA君の指さしたのは、『光明日報』(一九七九年十一月十日付)に載った、広西チワン(壮)族自治区徳保県に住む鄭展才という読者の寄稿「わが家の七つの喜びごと」であった。最近の中国の新聞はいずれも「読者来信」(読者の便り)といった欄に力を入れ
Author: 本誌記者 Year 1980 Issue 3 PDF HTML
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166. 劉少奇同志の名誉回復
中国共産党の傑出した指導者であった劉少奇同志の名誉回復は、当面の中国の政治生活における一大事件である。劉少奇は、元中国共産党中央副主席で、一九五九年から一九六六年まで中華人民共和国主席を務めた。一九二一年の入党後、全生涯をプロレタリア革命の事業にささげ、数十年にわたり一貫して党の主要な指導者の一人であった。国民党支配地区で、ある時は党の労働組合工作を指導し、ある時は党の地下活動の指導にあたった。一
Author: 本誌記者 Year 1980 Issue 6 PDF HTML
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167. 友誼のかけ橋を強めて
去る六月一日、華国鋒総理一行は、六日間の公式訪問を成功裏に終え、空路、一衣帯水の友邦日本から上海にもどってきた。五月二十七日からの六日間、急に、子供から老人までが、テレビ、ラジオ、新聞に興味をわかせ、ずっと、華国鋒総理の滞日中の活動を見守ってきたのだった。五月末ともなると、日本は梅雨に入るのだが、華国鋒総理一行が日本に着いた日は、からりと晴れあがった上天気であった。華総理をはじめ、谷牧副総理等中国
Author: 本誌記者 Year 1980 Issue 8 PDF HTML
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168. 日本文部省の教科書改ざん行為を中国人民はどう受けとめたか
今年の九月二十九日は、中日両国の国交正常化十周年にあたる。中華人民共和国誕生以後、中日両国人民の二十三年の努力を通じて、両国の国交が回復したことは、歴史的に重大な意義を有する、記念すべきことであり、中日両国人民は種々の記念行事を行なってきた。ところが折りも折り、日本文部省は教科書の検定にあたって、日本軍国主義の中国侵略の歴史を改ざんし、日本侵略者が中国人民を屠殺した野蛮な暴行をごまかし、侵略戦争を
Author: 本誌記者 Year 1982 Issue 10 PDF HTML
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169. 21世紀までに中国の人口はどうなるか
去る七月一日の北京時間〇時を標準時間として、中国では第三回全国人口調査をおこなった。全国人口の正確な数字は、まもなく公表されるだろう。国家統計局の発表した数字によると、一九八一年末現在の人口は九億九六二二万。台湾省と合わせれば、中国の人口はすでに一〇億をこえ、世界人口の二二%を占める。中国の人口の急テンポな増加は、新中国成立後に始まったものであるが、それにしてもどのように伸長したのだろうか?歴代人
Author: 本誌記者 Year 1982 Issue 12 PDF HTML
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170. 中国の政局と前途をみる
中華人民共和国の最高権力機構としての全国人民代表大会は、毎年代表が一堂に集まり、ともに国家の大計を討議する―これはいつものことであるが、しかし今年ひらかれた第六期第一回会議はかなり様相がちがっていた。これは、一九八二年の新憲法にもとづいてはじめて選出·誕生した代表大会である。全国各地、各民族の代表二九七八人のうち、新選出の代表は四分の三を占めた。知識人代表が大幅にふえ、四分の一近くを占めた。党外か
Author: 本誌記者 Year 1983 Issue 9 PDF HTML