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Your search : [ author:本誌記者 李 奈] Total 1311 Search Results,Processed in 0.098 second(s)
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1. 内蒙古草原放牧の暮らし
騎馬民族の名に恥じない民族内蒙古草原に入ってまもなく、思いがけない事故にあった。ある日の夕方、ホト(牧畜民の集落)での取材を終えて、宿泊所に戻る途中、車が故障してしまった。運転手は顔じゅう汗だらけになりながら、修理したが、どうしても直らない。通訳の田茨さん―彼女は高校生で夏休みのアルバイトとして通訳を買って出てくれた―が車の警笛を鳴らして、“救援”を求めた。けれども、これもむだである。二人の若者は
Author: 本誌記者 李 奈 Year 1984 Issue 5 PDF HTML
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2. 農村富裕化のシンボル―「万元戸」
「私たちの乗る日航機が滑走路から北京―東京航路へと飛びたったとき、私は、ここ数日間、中国の農村をみてまわった印象について連想せずにはいられなかった。たとえてみれば、中国の農村(経済)も離陸したばかりの飛行機といっていいだろう。それは、点検、注油、始動、助走などの緊張した過程をへて、ついにしっかりと『現代化』の航路へと進入したのである。……」とは、ある日本人学者の感想である。
Author: 本誌記者 李要武 Year 1985 Issue 4 PDF HTML
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3. 若がえった開灤(かいらん)炭鉱
渤海湾を南にのぞむ広い平野に、埋蔵量のゆたかな炭鉱がある。河北省の開灤炭鉱だ。一八七八年に採炭を開始してから現在にいたるまで、この炭鉱はすでに一世紀に近い歴史をもつ。ききごろ、記者はこの炭鉱を訪ねたが、そうした長い歴史をもつこのヤマがみちがえるほどの変化をとげているのをみた。ヤマじゅうが生気と熱気にあふれていた。地下数百メートルの坑内では、各種の新しい採炭機が夜を日についで活躍し、電気機関車が、曲
Author: 本誌記者 張玉泉 李世清 Year 1973 Issue 10 PDF HTML
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4. 炭鉱労働者の今日このごろ
開灤炭鉱の労働者は「幸福な」ということばをつかって自分たちのいまの生活を表現するのがつねである。このことばは、ただの形容詞ではない。それは心の底からの叫びなのだ。解放前、帝国主義と資本家の残酷な搾取をうけて、この炭鉱の労働者はこの世の苦難をなめつくし、「幸福」とはまったく無縁だった。解放後、かれらは、政治的にも経済的にも主人公としての地位を獲得し、はじめて幸福な生活がおくれるようになったのである。
Author: 本誌記者 張玉泉 李世清 Year 1973 Issue 10 PDF HTML
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5. 「太陽の町」ラサ
中国の沿海地方からチベットへ行くには、距離が長いだけでなく、高山地帯をこえてゆかなければならない。そうしたことから以前にはチベットへの旅行は大旅行であって、ひじょうな勇気と決意を必要とした。だが、いまはもうあたりまえの旅行にかわっている。北京―チベット間の定期航路をとぶ旅客機で出発したわたしたちは、四川省の成都市を経由して三千余キロを三時間あまりでとび、チベット自治区の主都ラサの南にあるコンカル飛
Author: 本誌記者 張嘉斉 李要武 Year 1975 Issue 8 PDF HTML
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6. 草原の鷹
チベットでは、好んで英雄を鷹にたとえる。それは、解放前、農奴は人身の自由をうばわれていたから、あらしをものともせず大空を自由に飛翔する鷹にその思いを托していたためであろう。チベットでの取材旅行中に、北部にひろがる草原で草原の鷹とよばれる人びとに出会った。草原の鷹―ブド草原の鷹―ブドさんがそのよい例だ。かれは目がみえない。そのかれが、バチェン県ラシ人民公社の党支部書記、革命委員会主任を兼務し、りっぱ
Author: 本誌記者 張嘉斉 李要武 Year 1975 Issue 9 PDF HTML
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7. チベット北部の草原をゆく
つぎの取材地はチベット北部の牧畜地帯だ。そこは涯知れぬ大草原―蔵北草原またはチャンダン(北方の草地)ともよばれる。チベット自治区の北部にあるこの草原はチベット自治区の面積の約三分の一をしめ、わが国での天然の牧場としては著名なものである。歌と踊りに託してラサをあとにした自動車はヤンバチェン峡谷をぬけると大草原に入った。草原には、白い雲を思わせる羊の群やヤクと馬の群がみえる。放牧をうけもつ公社員がムチ
Author: 本誌記者 張嘉斉 李要武 Year 1975 Issue 10 PDF HTML
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8. 『世界の屋根』で栽培された冬まき小麦
伝説が現実になるラサ付近の国営農場―ポンボ農場でつぎのような話を聞いた。かつて、このポンボ地区に奴隷のタンツェンという英雄があらわれ、仲間の奴隷をひきいて立ちあがり、農奴主を殺し、地方政府の役人を追いはらい、苦しみにあえいでいた人びとを解放した。そのこ、タンツェンの指導のもとに、この地方の山間部で青稞(耐寒性裸麦)が栽培されるようになり、ゆたかな収穫をあげはじめた。だが、それもつかの間、チベットに
Author: 本誌記者 張嘉斉 李要武 Year 1975 Issue 11 PDF HTML
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9. 新しい工業の町―八·一鎮
ラサ市をあとに川蔵(四川―チベット)公路を東へ四百キロほどゆく。そのすぐ先で、ヤルツァンポ江にその支流のニーヤン河が合流する。そこには山々にかこまれた、みどりしたたる樹木を配する近代的な町がある。大小さまざまな工場が屋根をならべ、労働者の住居が山を背にし河にのぞんで建っている。町の大通りにはトラックや馬車がさかんにゆきかい、いたるところが活気にあふれている。この町が「高原の宝石」とチベットの人びと
Author: 本誌記者 張嘉斉 李要武 Year 1975 Issue 12 PDF HTML
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10. 今日のチベット―封建農奴制からいっきょに社会主義へ
一九七五年九月九日は、チベット自治区成立十周年にあたる。チベット族人民のこのよろこばしい日をまえにして、記者はチベット高原を訪れ、取材した。その間、一代目の労働者、農民、解放軍戦士、牧畜民、少数民族出の幹部、教師、医師、科学者、俳優と僧侶などチベット族の人びとと広く接した。かれらは、それぞれの角度から自分たちの過去と現在について語り、かれらが先祖代々住んできた土地で生じた大きな変化について聞かせて
Author: 本誌記者 李要武 韓瀚 張嘉斉 Year 1975 Issue 8 PDF HTML