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Your search : [ author:本誌元編集長 車慕奇] Total 48 Search Results,Processed in 0.105 second(s)
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41. 砂漠一周 旅の終わり
砂漠を一日歩きまわって、安迪児(アンデイル)牧場に帰りついた時には、もう夜も更けていた。ラクダの背に揺られて、腰や背中がどんなに痛もうと、まだ、ロバの背中から四度も振り落されてどんなに動悸がしずまるまいと、とにかく嬉しかった。なにしろとうとう重なる砂丘のかなたの「迷宮」の奥深くにふみこんだのだ。とうとう砂漠の「迷宮」のまん中で、古代の円形城市を探訪することができたのだ。かの完全に残された城壁、かの
Author: 本誌記者 車慕奇 Year 1981 Issue 2 PDF HTML
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42. 六億の人民にかわつて
ひとしきり夕立がすぎたあとの北京は、よみがえつたように涼しい。懷仁堂のしつとりと濕つた芝生では、ひとりの代表が―カーキ色の軍服につけた肩章から見ると上將だ―もうひとりの中將の手をしつかりとにぎりしめながらたずねている。『新疆から來たんですか? あんた方のところのクラマイではまた石油が出ましたね!』これをきいた相手の顏には得意そうな微笑がうかんだ。休憩室の一角では、陳雲(ちんうん)(チエン·ユン)副
Author: 車慕奇(チヨームーチー) Year 1956 Issue 9 PDF HTML
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43. シーサンパンナ
国境を越えれば、そこは、ビルマかラオス。シーサンパンナは、熱帯に位置する神秘にして麗しい、旅行者のあなたにとっては、“地上の楽園”なのです。訪れた日本人のお客さんは、「ああ、わたしが画家だったら」「ああ、わたしが詩人だったら」と、口をそろえてお嘆きになる!? 中国人にしても気持ちは同じです。美術学校の学生が、一度は行ってみたいところ、それがシーサンパンナなのです。「シーサンパンナ」は、ダイ語。ダイ
Author: 構成 車慕奇 え·翁乃強 Year 1989 Issue 8 PDF HTML
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44. 大理
「世界の屋根」·チベット高原から東南に伸びる横断山脈。万年雪をいただく尾根から、金沙(きんさ)江、瀾滄(らんそう)江、怒(ど)江の谷を刻む険しい急勾配の山腹は、世界でもまれな「垂直分布」で知られます。珍しい動·植物が、標高のちがいによって、層を成すように分布しているのです。横断山脈の一支脈が蒼山(そうざん)。点蒼山とも呼ばれます。一支脈と言っても、海抜は四千メートル。十九の峰がつらなり、延々四十二
Author: 構成 車慕奇 え 翁乃強 Year 1989 Issue 9 PDF HTML
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45. 中国は安定しているか
全中国を震撼させた政治動乱が、新中国成立四十周年という年に発生したことに、わたしは、ひどく心を痛めた。四十年前、新中国が誕生を宣言したその日、わたしは、志を同じくする数人の友人と、天安門広場で開かれた建国大典に参加したあと、興奮さめやらぬままに、東交民巷を“デモ”したのだった。ちょうど、わたしも含めて五人だった。手に手をとり、歩調を合わせて行進しながら、 「解放万歳!」 「人民中国万歳!」 「帝国
Author: 本誌前編集長 車慕奇 Year 1990 Issue 6 PDF HTML
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46. 中国は安定しているか
ふたつの前途社会主義国家内でブルジョア自由化を鼓吹する者は、例外なく「改革」の旗印を掲げる。中国においても、事情は変わらない。彼らは、自らを「改革派」と称する一方、ブルジョア自由化に反対する者を「保守派」ときめつける。こうした手口は、きわめて欺瞞(ぎまん)的である。一九八八年九月、党と政府は、経済が過熱し、物価の上昇率が異常に高く、流通面での秩序が乱れているという現象を前に、経済を整理整頓し、改革
Author: 本誌前編集長 車慕奇 Year 1990 Issue 7 PDF HTML
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47. 劉徳有さん わたしと日本
とき:1986年11月 ところ:本誌編集長室劉徳有(りゅうとくゆう)(リュウドゥヨウ) 中国文化省次官、中日友好21世紀委員会中国側委員、中国翻訳工作者協会副会長、中国国際交流協会理事。 1931年、大連の生まれ。1952年に上京、『人民中国』誌編集部に勤務。1964年から1978年まで、『光明日報』駐日記者、新華通信社首席駐日記者として日本に滞在。 著書に、『日本探索十五年』(原著名は『在日本十
Author: 聞き手 本誌編集長 車慕奇 Year 1987 Issue 1 PDF HTML
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48. 任仲英さん 北京飯店とともに60年
とき 1986年11月20日 ところ 北京飯店接客室任仲英(にんちゅうえい)(レンズオンイン)さん 1912年、天津の生まれ。北京に移り、1920年、北京北池子小学に入学。1927、北京飯店に雇われメッセンジャー·ボーイに。給料なし、チップだけ、という文字通りの“こづかい”だった。31年、客室係に。46年から2年間、エレベーター·ボーイ。48年には館内電話の交換手をつとめ、1949年からは、ずっと
Author: 聞き手 本誌編集長 車慕奇 Year 1987 Issue 4 PDF HTML